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師であり、家族であった相馬雪香さん逝く2008年12月28日
相馬雪香さんを追悼し感謝する会が、25日憲政会館で開かれました。享年96歳でした。
憲政の父、尾崎行雄の三女で、難民を助ける会会長、国際MRA日本協会会長、尾崎行雄記念財団副会長などを歴任し、日本の同時通訳の草分けでもありました。
相馬さんは、私たち家族にとって、師であり、また家族以上に私たちを思いやって下さった方です。
私が最初にお会いしたのは、大学を卒業した1975年、青年団の指導者寒河江善秋さんから、「世界で修行してみないか!」とご紹介をいただき、MRA(現在のIC)の国際青年親善使節Song of Asia(アジアの歌声)に加わるためにMRAの会合に出席したときです。
何かにつけて文句をつけ、怒りまくるおばあさんだな、と思いましたが、その後、2年間14カ国をホームステイをしながら訪問した先々で、戦後の日本と世界との架け橋役を務めていたという相馬さんの活躍の現場を知ることができました。
「日本は難民に冷たい」というカナダのジャーナリストからの手紙がきっかけでインドシナ難民を助ける会(後の難民を助ける会)の立ち上げをお手伝いし、カンボジアの難民支援のプロジェクトや、森進一さんの『じゃがいもの会』のアフリカ難民支援プロジェクトも私が立ち上げを行いました。そうした時に相馬さんは常に、「まず日本が変わらなければ」、「難民を助ける以上に日本人を教育したい。」という強い理念を抱いていました。
妻玲子との結婚式はアメリカ人の牧師で難民支援の仲間エイトキンさんが司祭を務めてくれましたが、私の通訳の師匠でもある相馬さんが通訳を買ってでて下さいました。
その後私たちはイギリスで1年ほど生活しましたが、出発までの間家がない私たちを1週間ほど相馬家で泊めていただきました。
数年後相馬恵胤ご夫妻がスイスのMRA国際会議に出席のため、恵胤さんのお母様(徳川慶喜公の姪)の相手が必要だということで、私はスイスでご夫妻のお手伝い、玲子は相馬家に泊まりこみ、お母様のお手伝いをしたという夏もありました。
私が急に選挙に出ることになった時、当然、周囲には反対論もありましたが、「本当に国や世界のために働くのなら、全面的にサポートするわ」と支えて頂きました。
最後にお会いしたのは、8月17日。軽井沢のお宅に、娘、愛の結婚式の写真をお届けし、とても喜んでいただいた日でした。その数日後にころんで入院し、それから体調が悪化し始めたとのことです。
以来、難民を助ける会の吹浦さんなどのご指導で、私から外務省や文部科学省に再叙勲の話を進めていましたが、ご逝去後は、担当者のご好意で叙位の申請に切り替え、19日の閣議で正5位の叙位が決定されました。
「追悼し感謝する会」では、皇后陛下、寛仁親王殿下(ひげの殿下として有名な三笠宮殿下)、麻生総理大臣、河野衆議院議長、江田参議院議長、日野原重明聖路加国際病院理事長、羽田孜元総理夫妻、橋本徹国際IC日本協会前会長などが出席され、会場の外にあふれるほど多くの方々が参列されました。
これからは、「人を指差すよりも、まず自分が変わる」、「常に世界を視野にいれて」という相馬さんの教えと檄を常に心の中にしっかり刻んで歩んでいきたいと思います。
相馬さん、恵胤さんとともにこれからも暖かに見守って下さい!
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