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私の生き方を変えたMRA/IC運動2023年04月13日
「私の生き方を変えたMRA/IC運動」
3月25日国際IC日本協会でという講話を行いました。これらの体験談の多くが「政治家になりたくなかった政治家」という衆議院議員時代の拙書に出ています。お問い合わせを頂きましたが、以下のPDFで全ページご覧になれますのでご笑覧下さい。
https://y-fujita.com/wp-content/themes/fsite/pdf/yukihisa-fujita-book.pdf
以下が私の体験の主な内容です。
【MRA/ICとの出逢いと歩み】
〇大学入学後父の会社が倒産、夜逃げ。バイト暮らし(運送会社、バーテン)で卒業。
〇選挙のバイトで日本青年団の寒河江善秋氏と出逢う。国会議員の事務所でもバイト。法律やルール通りでは目的を達成できない人ばかりが政治家にたかりに来るのが多い。長くいる場所ではないと知る。
〇それよりも「世の中の問題を知り、役に立つ仕事がしたい。」と寒河江さんに言うと、「MRAに行けばよい。自分もMRAで世界を知った。君には向かない。酒もたばこもやらない人達ばかりだから」と言われた。
〇スイス・コーのMRA国際会議でMRA国際親善使節Song of Asiaに合流。アジア大洋州の青年約50人と2年間で15か国を訪問。戦前、戦中のアジアでの日本軍の行動などの歴史に対する自分の無知を反省、謝罪。アジアは紛争や分断だらけ。アジアは有事ばかりで、日本だけが平時。
〇1977年帰国後MRAの事務局で労使のコー会議への参加や産業人会議を支援。
〇1979年カナダのMRAの友人の手紙がきっかけで相馬雪香さんと共に難民を助ける会(AAR)の設立に関わる。
〇1980年タイでカンボジアのソン・スーベールさんに出逢い、AARプロジェクトを立ち上げる。
〇1981年~82年 妻玲子と結婚後ロンドンのMRAハウスのホスト役。最初のディナーゲストがカンボジアのソン・サン首相(ソン・スーベールさんの父)。
〇1984年財団法人MRAハウス(渋沢雅英代表理事)の支援を得て社団法人を設立。
〇1985年日米欧の貿易摩擦が激化する中、オランダのフィリップス社フィリップス会長からの手紙が契機でコー日米欧経済人円卓会議(CRT)を立ち上げ。1994年「企業の行動指針」を作成。
〇1996年 コー50周年大会に羽田孜議員、鳩山由紀夫議員、狩野安議員。千葉一夫大使、キヤノン賀来龍三郎会長など100人以上の日本人が参加。
〇来日中のRajmohan Gandhiさんと鳩山由紀夫さんの「わがリベラルは愛」の英訳を手伝いったことから、衆議院議員選挙に出馬し当選。初の国際NGO出身政治家。
以下をMRA/IC関係の理念やネットワークを生かして実現。
〇 対人地雷禁止条約調印。(小渕恵三外相、羽田孜議員、鳩山由紀夫議員などの支援)
長男幸英が事故死。小渕恵三外相が自宅に弔問に。
〇 不登校であった幸英の経験から不登校問題に取り組み、フリースクールの生徒に定期券支給を実現
〇 カンボジアのソン・スーベールさんから紹介された世界宗教者平和会議(WCRP)の人道援助や和解活動を支援。今日に至る。
〇 米軍元捕虜(POW)の日本招聘を実現。MRAに関係のある玉沢徳一郎議員、谷川和穂議員の支援。
〇「自分が変われば国が変わる」の理念などで選挙を闘うが数回落選
【MRA/ICで学んだこと】
〇 言い訳はしない。他人の悪口は言わない。
和解活動で手柄を挙げようとすると失敗する。
〇人をケアし、フォローする。繋ぐ。どんな細かいことでも受ける。
自分の話を聞いてくれる人。自分のことを気にかけてくれる人、と思われる存在になること。
〇自分から始める。他の人のやり方は問わない。押しつけない。裁かない。解説しない。
〇コロナ禍とウクライナは、今までは他人事のように見えたことが、自分の問題となった。
私達に自分で考える機会を与えてくれた。国際IC活動の貢献のチャンスである。
〇「人生の本舞台は常に将来にあり」(尾崎行雄)の言葉のように本舞台を模索したい。
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