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『ウクライナ難民の感動インタビュー』2022年05月22日


国際ICのスイス・コーの国際会議場は、第2次世界大戦後はドイツとフランスの和解や、日本の国際社会復帰とアジアとの和解、その後もイスラエルとパレスチナ、西欧諸国と旧東欧諸国との信頼醸成の場として活躍してきました。そこで、3月初旬からウクライナ難民を受け入れています。その難民のご家族が生生しい体験を語ってくれました。

『私たちは信じられないほどラッキーでした』

ウクライナ難民の感動インタビュー(スイス・コー国際IC会議場)
インタビュアー:アナスタシア・スリヴィンスカ(ウクライナ人ジャーナリスト)

アナトリイ、テティアナ夫妻と3人の息子たちは、キーフ近郊のホレンカ村で1週間以上、凍えるような低温の中、電気も暖房も水もなく暮らしました。ウクライナからEUの長旅を経て、今コーで平和を見いだしました。
現在、男の子たちは地元の学校に在籍し、再び遊んで笑うことができるようになりました。アナトリイとテティアナにとってこれ以上は望めないと言っています。

あなたの家族にとって戦争はどのように始まりましたか?
アナトリ:2月24日の午前4時に最初の数分で始まりました。ヘリコプターがやってきました。30機くらいいたという人もいます。午前9時までにそのうちの3機が私たちの家のすぐ近くから砲撃してきました。それが戦争の始まりでした。
ロシア軍が攻撃してきたとき、子供たちと一緒に家にいましたか?
アナトリ:はい、私たちは自宅で仕事をしているので、子供たちと一緒にいました。ヘリコプターが撃墜されるのは印象的でした。その後、ウクライナのヘリコプターが飛んで来て、キーフ北西の都市と空港であるホストメルを守るために、私たちの森の上空を飛び始めました。これはすごい轟音でした。敵のMi-24とK-52戦闘ヘリコプターも見えました。
それで、あなたは違いに気が付きましたか?
アナトリイ: はい、私は8年前の経験との違いを感じました。敵のヘリコプターもはるかに大きいです。初日は戦闘ヘリコプターだけでした。しかし翌日砲撃がわたしたちの家から200メートルから300メートル離れたところに着弾しました。それは榴弾砲だったと思います。
テティアナ: 電気と熱は同じ日に消灯しました。水もありませんでした。凍えるような寒さでした。


(写真1 )コーで3人の男の子とアナトリーとテティアーナ夫妻

状況がエスカレートしたことに気付いたのはいつですか?いつ避難を考えましたか?
アナトリイ:テティアナは全く逃げたくなかったのです。
テティアナ: ロシア軍が攻撃してきても、ホストメル・ハイウェイを進軍することを望んでいました。しかし、その後、ウクライナ軍はイルピンを通る主要な橋を爆破したために、ロシア軍はそこを攻撃できませんでした。ウクライナ軍はキーフ近郊のモシュン村を通る小さな橋を5回爆破しようとしましたが、破壊できなかったので、ロシア軍はそれを使うことができました。彼らはモシュンを破壊し、私たちの村に侵攻しました。村の中心部の通りはすべて燃えていました。
あなたが住んでいた地域は戦争の初めから攻撃を受けていたのですか?
テティアナ:ロシア軍は最初の週から徐々に砲撃を始めました。最初は3軒の家、それからもっと…。3月3日、私たちの工業地帯はすでに燃えていたと思います。地平線は全て炎で真っ赤でした。
戦争を予想し、事前に何か準備をしていましたか?
アナトリイ:最初の数日間、私たちは地元の自衛組織を結成しました。私たちのコミュニティの子供たちでさえ検問所の建設を手伝いました。3人の子供たちも庭からタイヤを持っていって手伝いました。約15人の成人男性が自己組織を作りました。私たちはチェコのハリネズミ(金属製の斜めの梁で作った固定的な対戦車防御柵)を作り、全員が任務に就く交代制をとりました。しかし、私たちには猟銃と空気銃1丁しかありませんでした。
テティアナ:私たちは自分自身を守る武器を持っていませんでした。コミュニティは戦争に対して全く準備ができていませんでした。避難計画もありませんでした。

(写真2)家族が滞在しているコーのセミナーセンターのヴィラマリア

いつ、どのように避難しようと決めましたか?
アナトリイ:避難する必要があるという事態を受け入れるのにしばらく時間がかかりました。
テティアナ: 最初の8日間は砲撃があったが、継続的ではありませんでした。しかし、砲撃が、- buh-buh-buh-と続いた時、それがわかりました…(テティアナの声が途切れる)。
アナトリイ: 中央軍病院はすでに満員で負傷者の流入に対応できていなかったので、私は病院に助けを申し出ました。そして、レレカ産婦人科病院は負傷者を治療していました。最初の戦いで8人が負傷し、2人が死亡しました。これらすべてが私自身の目の前で起こっているのを見て、できる限りの支援を行いました。
テティアナ:その時でさえ、ウクライナ人はロシア軍をキーフ地域から追いだせると望んでいた。私がここにいる限り我が家には何も起こらないだろうと感じていました。しかし、1週間後、これではまずいことを理解しました。まずは子供たちを救い、家のことは忘れる必要があるとわかりました。
次に何が起こったのですか?車で出発しましたか?
アナトリイ:最初は子供たちと一緒にテティアナだけです。私はウサギ達と一緒に残りました。(笑い) 私は地元の検問所で勤務していました。彼らがピオン榴弾砲を使うのを見ました。忘れられない光景でした- それは小さな核爆発のように見えました。すべてが灰と化してしまいました。
テティアナ:私はキーフの小さなアパートで子供たちと一晩過ごし、翌朝の午前7時に出発しました。私は西に向けて運転する以外に何の計画もありませんでした。私は今まで1時間以上運転したことがありませんでした。午前7時から暗くなって運転できないまで、どこからそんなに運転するエネルギーを得たのか分かりません。
アナトリイさん、家族が去った後もボランティアを続けましたか?
アナトリイ: ホレンカにとどまった人はたくさんいました。多くの家が焼けて灰になったときでさえ、私たちはロシア軍はワルシャワ街道に沿って道を作り攻撃してくると考えました。
その間、私は村に残った近所の人たちを避難させていました。問題は避難することではなく、どこへ行ったらよいかということでした。私はある家族をキーフの私のアパートに避難させました。今でも彼らはそこにおり、安全であることを願っています。私は別の2つの家族も彼らの家族のところに避難させました。しかし、その後、ロシア人はすべての動く物体を標的にし始め、続けることは安全ではなくなりました。村で多くの破壊された車を見ましたし、ホレンカの写真の証拠もたくさんあります。振り返ってみると、私は信じられないほどラッキーでした。
あなたの家は今でもまだ残っていますか?
アナトリイ:窓はありませんが、まだそこにあります。爆弾が隣の家の一部を破壊したので、私たちはとてもラッキーです。子供たちの学校は焼かれました。
EUのどの国に最初に行く予定でしたか?
アナトリイ: 何の計画もありませんでした。テティアナはルーマニアの方向に向かっていました。再会するまで、私は36時間も寝ていませんでした。

(写真3)コーで遊ぶ二人の息子

子供たちはこのすべてを通して何を感じましたか?何が起こったのか説明できましたか?
テティアナ: 多分将来、何かわかるかもしれません。私たちは彼らに何も説明しませんでした。
アナトリイ: 私たちがまだ家にいる間は、家を暖めるために薪を切ることと食事を作るという2つの仕事がありました。私はほとんどの時間検問所にいました。絶え間ない砲撃がありました。私たちの家は沼地にあるので、地下室に隠れることができませんでした。子供たちは自分たちだけで過ごしました。ほとんどの時間ただ暖まろうとしていました。長男は薪を切るのを手伝いました。EUにたどり着くまでずっと移動していました。彼らはとても疲れ果てていたので、車の中でずっと眠りっぱなしでした。私たちがどこへ向かっているのかさえ尋ねませんでした。
テティアナ: おそらく、ウクライナには爆撃と銃撃があったが、ここにはないことが分かったのでしょう。それで十分でした。大きな不安やストレスの兆候を示さなかったことが、親たちにとって助かりました。もし彼らが泣いていたら、どこにたどり着けていたかわかりません。スイスへ向かう途中で何度も道に迷いました。しかし、ウクライナで経験したことと比べると、何でもありませんでした。
アナトリイ: 私たちはとてもラッキーでした。

(写真4)男の子たちはすでに地元のバドミントンクラブに入会しています

コーの近くの学校に子供たちを連れて行くことができましたか?
アナトリイ:はい、ここの学校は素晴らしいです。5人の男の子と1人の教師と1人の通訳者で特別なクラスを組織して下さいました。
テティアナ: 男の子たちはバドミントンが大好きで、ローザンヌには素晴らしいコートがあります。
コーでの歓迎はいかがでしたか?
テティアナ: ここコーでとても親切に迎えられたことをとても幸せに思います。ウクライナでの光も電気も、何もない8日間を過ごした後、ここは楽園そのものです。
アナトリイ:私たちはこのような歓迎を全く期待していませんでした。IofCスイスの皆さんには、私たちが到着したときに行って下さった組織だった対応と、子供たちが学校に通うのを手伝って下さったすべての皆さんに感謝したいと思います。私たちの子供たちにチャンスを与えて下さいました!
インタビュアについて

(写真5)アナスタシア・スリヴィンスカはウクライナのキーフ出身のジャーナリストです。テレビの司会者、外国人記者、ウクライナ国内外のメディアで働いてきました。ウクライナとカナダの両議会で働いた経験を持ち、メディアの専門知識と政治学のバックグラウンドを兼ね備え、政治学の修士号を取得しています。2014年に「人間の安全保障会議」に初めて参加して以来、IofCコミュニティの一員で、現在コーで活動しています。

https://www.iofc.ch/stories/we-were-incredibly-lucky