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元捕虜の神戸、長崎訪問をマスコミが報道2009年06月18日

神戸新聞 6/18
神戸で収容生活 元捕虜の男性来神 

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64年ぶりに神戸の地を踏んだ元捕虜のジョークームズさん=中央区東川崎町3

 太平洋戦争中、捕虜として神戸市内で2年余りの収容生活を送ったオーストラリア人、ジョー・クームズさん(88)が17日、労働を強いられた中央 区の川崎重工業神戸工場や収容所跡を訪れた。来日は終戦以来、64年ぶりというクームズさんは「あの当時のすべてがつらい経験。『絶対に生き抜く』という 強い意志だけが支えだった」と振り返り、感慨深げに神戸の町並みを見つめた。

 クームズさんは1942年2月、シンガポールで捕虜となり、同12月から2年3カ月、神戸の造船所でタンカーの組み立てなどの労働を強いられた。その後、福岡に移され、麻生太郎首相の父が経営した旧麻生鉱業の炭鉱で終戦まで働かされた。

 「食事は水のような少量のスープとわずかな米だけで1日2回。空腹と長時間労働で倒れそうだった」。薄い布の服に木の番号札を首から掛け、毎日10時間近く、鉄鋼を運び続けた。80キロあった体重は48キロまで落ちたという。

 収容された長田区の「丸山分所」では、100平方メートルほどの粗末な小屋に約100人がすし詰め状態で暮らした。思い出の地を巡りながら、クームズさんは同行する2人の息子に話し掛けた。「平和のために未来の世代に戦時中のことを語り継いでほしい」

  来日を支援した市民団体「元捕虜・家族と交流する会」(事務局・東京都)世話人の有光健さん(58)は「日本では外国人捕虜の記憶が抜け落ちてしまい、問 題が置き去りにされてきた」と指摘。クームズさんは麻生首相に強制労働の認定と謝罪を訴えており、「多くの人に歴史的事実を知ってほしい」と話してい た。(前川茂之)(6/18 10:20)

毎日新聞 2009618日 大阪朝刊
元日本軍捕虜:豪州人、使役の造船所訪問 「事実学んで」--神戸

 二次大戦時、日本軍の捕虜だったオーストラリア人、ジョー・クームズさん(88)が17日、当時働かされていた神戸市の造船所や捕虜収容所跡地を訪れた。クームズさんは「戦争を二度と起こしてはならない」と強調し、「両国の若者たちに、捕虜がいた事実を学んでもらいたい」と訴えた。
 クームズさんや支援者によると、陸軍に所属していたクームズさんは1942年2月、捕虜となり、同年12月~45年3月、神戸市の造船所で使役させられたという。その後、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県)で働かされた。クームズさんによると、造船所ではタンカーの部品の運搬などに従事。「97」という番号で呼ばれ、食事は1日2回、少量の米飯とスープだけ。収容所では約100人が同じ部屋で暮らしていたという。
 17日夜に東京に移動、関係者を通じ麻生首相に面会と謝罪を求める。【金森崇之】

 
06/17
 NBC長崎放送
「父の体験伝えたい」 イギリス人元捕虜の家族 長崎へ
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/houdou/index.php?itemid=7655

幼いころから聞かされた父の捕虜時代の話。
長崎は、どのような場所なのか答えを探しています。

イギリス人元捕虜の故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん。

今回捕虜問題に取組んでいる市民団体の招きで来日し、
収容所跡を回っています。



ジェームスさんの父故・マクアナルティさんは、第2次世界大戦で捕虜となり、
1942年から3年間、香焼の捕虜収容所に収容され、近くの川南造船所で、
使役されていました。



その後、福岡の炭鉱に移送されたため、被爆は免れましたが、
造船所での過酷な労働を経験し、帰国後も
日本に対するトラウマを抱えていたと言います。

今年で62歳。
父が亡くなった年を超えジェームスさんは、
子供や孫の世代へ父の体験を伝えたいと考え、長崎訪問を決意しました。

戦時中、捕虜と一緒に川南造船所で働いていた、北御門 ノイ子さんを訪れ、
当時の作業所の様子についても話を聴きました。

収容所跡地に慰霊碑を建設する運動をしている
北御門さんの話に触れたジェームスさん。

21日まで日本に滞在し、捕虜に関する資料集めや、
関係者への訪問を続けるということです。


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