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義母 星ミヤ子の告別式 (平成27年1月24日(土))2015年01月24日

 24日の義母、星ミヤ子の告別式には、水戸斎場があふれるほど多くの皆さんにご出席頂き、感謝に耐えません。 東京など県外からも多くの方々にご出席いただきました。

 大雄院の南住職の読経の後、星ミヤ子の日立市の駒王中学校時代の同級生の武田孝一さんから素晴らしい弔辞をいただきました。また、親しかった狩野安元参議院議員からの特別メッセージや海外からのメッセージが朗読されました。

 橋本知事、大畠衆議院議員、郡司参議院議員、福島衆議院議員、小林元参議院議員、高橋水戸市長、三次常陸大宮市長、片庭つくばみらい市長、前場結城市長、軍事アナリスト小川和久、茨城県商工会議所和田会頭、連合茨城和田会長、茨城県宅建協会山田会長、茨城県酪農協会大槻会長、市橋静枝奈良屋相談役、西川藤田幸久東京後援会会長、田中世界宗教者平和会議(WCRP)国際トラスティーの他、常陽銀行、つくば銀行、茨城県信用組合、茨城トヨペット、茨城いすゞ自動車、京成百貨店、鈴縫工業、東京ニチユ、水戸ヤクルト販売などの役員の方々などからご焼香を頂きました。

 親族を代表して私が、故人の生涯の紹介を含め、下記のようなお礼のご挨拶を申し上げました。また、星ミヤ子の生涯をまとめたパンフレットを皆さんに差しあげました。

 皆さんの故人に賜りましたご厚情に心からお礼申し上げます。

 

<親族代表挨拶>

 本日は、お忙しいところ、また遠方の方々も含め、義母星ミヤ子の告別式にご参列を賜り深く御礼申し上げます。

 星ミヤ子は12月24日に脳出血により昇天し、28日に親族だけによる密葬を執り行いました。これまでにも胃の一部摘出、軽度の脳梗塞、パーキンソン病を相次いで煩い、波乱万丈、体も燃え尽きての大往生であったと思っております。この大きな遺影は、亡くなる約1ヶ月前のひ孫の七五三と一歳の誕生日の際の写真ですが、今から考えてみると、着飾って旅発ちの準備をしていたのかと思える写真です。

 星ミヤ子は昭和9年に7人姉妹の長女として生まれました。間もなく始まった戦争の前後には、病気や栄養不足などで4人の妹が死別するという大きな苦労を過ごす中で、気丈な責任感のある女性としての資質を育んだと思われます。

 父、星亀作は日産自動車神戸工場の工場長をしていた腕のよいエンジニアで、戦後日立市に移り星自動車整備工場を設立しました。当時の警察署や消防署などの主な車両は星自動車で整備していたとのことです。小冊子の写真にあるように、日立製作所や日立鉱山の幹部が使用していた外車の社用車が並んでいたのです。

 武田孝一さんが弔辞でご紹介下さいましたように、日立市駒王中学校や日立第二高等学校時代の生活は、生涯の友達に恵まれた時代であったと思われます。近所に韓国の家族がおり、お互いに自由に行き来したり、チマチョゴリを着せてもらったり、母、かきのはお産の手伝いをするほどの親しい家族となりました。韓国人との交流ははばかられていた当時のこの友情が、後に日韓女性親善交流協会で活動する下地になったと思われます。

 佐々木高茂と結婚後は、父は隠居し、星自動車整備工場の経営を担うことになりました。これは婿を迎えた以上、親は引退し子供達に任せるべきだという両親の考えでありました。

 やがて、ディーラーや企業自身が車の修理を行う時代となり、自動車整備からフォークリフト販売への展開をはかり、TCMやニチユの代理店業務を始めました。男の業界である建設機械業界での女社長としての苦労は並大抵のものではなかったようです。そんな中での武勇伝もあります。10トンの大型フォークリフトを販売した顧客企業が倒産したため、月賦の支払いが済んでいないその車両を引き取りにいったところ、やくざがそのフォークリフトをトレーラーに乗せて持ち去ろうとしていました。星ミヤ子達はそのトレーラーの助手席に乗り込み、やくざに返せと迫ったのです。やくざはミヤ子を乗せたまま夜通し福島県まで逃走を続け、「猪苗代湖で沈めてやるから」と脅されても頑として動かない星ミヤ子の剣幕と粘りに負け、とうとう諦めて退散したとのことです。

 水戸に移ってからは茨城県商工会議所婦人会連合会会長や、日本女性会議2001水戸実行委員会交流部会長、日韓女性親善交流協会などでの社会活動にも積極的に関わり、文化人を招いての様々なイベントを企画しました。特に、2005年の「フラメンコ曽根崎心中」水戸公演は、星ミヤ子を中心としたボランティアが運営を全て行って県民文化センター大ホールを超満員にしたことが語り草になっています。

 平成9年には、水戸市選挙管理委員長に就任し、投票率向上などに努力しましたが、水戸市の委員長は当て職で全国組織の役員となるため、当時東京で衆議院議員をしていた私の応援ができないという理由で1期のみで勇退しました。

 平成15年には、70歳を前に私財を投入して「グループホームすばる」を設立しました。これはデンマークとスウェーデンを自ら視察して、独立したホーム(家)が専門の介護施設を共有してコミュニティーを営むという北欧風のグループホームを作るという夢を実現したものでした。

 こうした社会貢献への関わりや国際性は生涯を通じてのものであり、長女玲子と次女敦子を、高校卒業後、狩野安元参議院議員のご紹介で、MRAという海外の国際ボランティア活動へと数年間送りだしました。私はオーストラリアで既にその活動に参加していましたが、そうした活動に対する社会的な認知度が低い時代にもかかわらず、カンボジアの難民をホームステイで受け入れたり、私たちの活動報告会を開いてくれるなど熱心な協力をしてくれました。

 その後、NGO活動の延長として世直しをしたいとの思いから政治活動に入った私たち夫妻に対する最大の支援者が星ミヤ子でありました。常にこの初心から外れぬ政治活動を私にうながし、落選したときも揺るぎなく支えてくれた、かけがえのない存在でした。このご恩に対しては、私たちが今後一生かかって社会に、そして世界にお返しすることによって報いて参りたいと思います。

 枕草子で一番美しい星とされた星座が「すばる」です。「巨星逝く」。そのすばるの大きな星が逝ってしまいました。その星が与えてくれた大きな宝を、私たち親族一同が一緒に継いでまいりたいと思っております。

 最後に、本日ご列席の皆様が星ミヤ子に与えて頂きましたご厚情に対し、故人、そして親族一同に代わり心からお礼申し上げます。今後は、残された私たち親族一同に、故人と同様のご厚情を賜りますことを心からお願い申し上げ、お礼の言葉とさせて頂きます。皆様、本当に有難うございました。

親族代表 藤田幸久

星ミヤ子パンフレット