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元捕虜との福岡・神戸・長崎訪問をテレビ、新聞が報道2009年06月17日
2009年6月17~22日
元捕虜との福岡・神戸・長崎訪問をテレビ、新聞が報道
各地の皆様のご支援とご協力に支えられて豪元捕虜ジョー・クームズさんと英元捕虜の息子のジェームス・マクアナルティさんらは6月15・16日福岡県飯塚、17日長崎・神戸を訪れ、今夜東京に戻りました。 以下の報道がすでに発信・放送されています。(クームズさんはシンガポールで捕虜になりましたが、「フィリピン」と紹介している社もあります。)
今日(6/18)は、英豪大使、参院議長らに面会、午後4時から超党派の恒久平和議員連盟の交流会に出席するほか、夜6時から憲政記念館で開かれる歓迎夕食会に出席する予定です。外国特派員協会での会見は19日午後3時からの予定です。
豪人元捕虜が首相に謝罪求める
豪人元捕虜が首相に謝罪求める 動画
http://news.rkb.ne.jp/rkb_news/archives/012692.html
第2次世界対戦中、旧日本軍の捕虜となり、筑豊の炭鉱で強制労働させられたオーストラリア人の男性が、麻生総理に謝罪と金銭的な補償を求めています。男性が強制労働させられていた炭鉱が、麻生総理の父が経営していた炭鉱だったためです。オーストラリア人のジョー・クームズさん。
1942年にフィリピンで旧日本軍の捕虜となった後、終戦までの3か月間、福岡県桂川町にあった、吉隈炭鉱で強制労働をさせられたと訴えています。吉隈炭鉱は、当時、麻生総理の父が経営していた、旧麻生鉱業所有の炭鉱です。旧麻生鉱業は、1969年に解散しています。クームズさんは、今は別会社となっている麻生グループの本社を訪ね、謝罪などを求めました。
炭鉱での労働のほか、開墾作業も強いられたというクームズさんはきのう、かつての強制労働の現場を訪れました。クームズさんは今年2月、強制労働に対する謝罪と、金銭的な賠償を求める手紙を麻生総理あてに送りましたが、返事がないということです。
旧麻生鉱業における捕虜の存在をめぐっては、去年12月、厚生労働省の公文書に、旧麻生鉱業に外国人捕虜が300人いたことが記録されていることが明らかになりました。さらに、旧麻生鉱業が陸軍大臣宛に、「捕虜2交代、12時間労働」を求めていたことも判明しました。
サンフランシスコ講和条約では、「元捕虜への賠償」が義務付けられています。政府として誠実に対応してきたという麻生総理ですが、捕虜問題は戦後60年以上経った今も放置されたままです。
クームズさんは今夜、上京し、あす以降、麻生総理に面会を求めることにしています。
元連合軍兵士ら捕虜時代の足跡たどる
吉隈炭坑跡地を訪れたクームズさん(中央)とマクアナルティさん(左端)=16日、桂川町、金子淳撮影
■地元住民と交流 当時を振り返る
戦時中に炭鉱で使役されたことへの謝罪を求めている元連合国軍捕虜のジョー・クームズさん(88)らは16日、働かされた桂川町の麻生吉隈炭坑跡付近を視察した。当時を知る地元住民と意見を交わし、感慨深そうに周辺を見て回った。
一行は午前11時過ぎ、同町吉隈の高台の住宅地を訪れた。捕虜収容所があった場所で、かつては斜面の下に鉄道が走っていたという。クームズさんは航空写真や当時の地図を見ながら、「鉄道はここ?」「ものが売っていた店は?」など地元住民に質問。「今通ってきた道が線路の跡ですよ」と聞くと、「戦争が終わって、門司まで列車で行き国に帰った」と当時を振り返った。
地元住民は、土地の開墾に従事させられた捕虜の姿を覚えていた。「あそこの畑に赤十字が物資を投下していた」「終戦後は元捕虜にニワトリをあげて、シャツなどをもらった」などとクームズさんらと懐かしそうに話していた。
イギリス人のジェームス・マクアナルティさん(62)は、父パトリックさんが捕虜として吉隈炭坑で働かされたという。6歳ごろから捕虜時代の話を聞かされて育ち、「父が語った光景を見られてとても感慨深い」。周囲を山に囲まれた地形も父の話の通りだといい、「故郷スコットランドの風景を思い出して、いつ帰れるのだろう、と思ったのではないか」と話した。
パトリックさんは71年に死亡したが、捕虜として働かされたことは「自分が死ぬまで抱える問題だ」とマクアナルティさん。「見聞きしたことを録音して、孫の代まで伝え残したい」と話した。
吉隈炭鉱:捕虜として使役させられたクームスさん、住民らと当時を振り返る/福岡
◇吉隈炭鉱跡など視察--桂川町
元連合国軍の捕虜として旧麻生鉱業・吉隈炭鉱(桂川町)などで使役させられたオーストラリア人、ジョー・クームスさん(88)らが16日、同炭鉱跡付近などを視察し、地元住民らと交流した。
クームスさんが吉隈炭鉱で働かされたのは1945年5~8月。この日は支援者らと収容所跡近くの高台から集落を見渡し「人生で一番過酷な時だった」と振り返った。ただ、「こうして、もう一度ここに来られたことはありがたいこと。死んだ仲間たちにも報告したい」と話した。
終戦後、アメリカは支援物資を飛行機で近くの田んぼなどに投下した。「子どもたちが拾うのを手伝ってくれた」とクームスさん。当時幼かった地元住民らもガムやチョコレートをもらったことを記憶している。原中悦男さん(76)は「祖父がニワトリと(元捕虜の)シャツやズボンを物々交換した。大きいけれどしっかりした洋服だった」と話し、クームスさんと笑顔で当時を振り返った。
政府は昨年12月まで捕虜使役の事実を認めなかった。クームスさんは「みなさんが私たちのことを覚えていてくれて本当にうれしい。心温まる印象深い思い出ができた」と話した。
クームスさんは17日、吉隈炭鉱の前に使役させられた川崎重工のある神戸市を訪れる。その後、参議院議長やオーストラリア大使と面談し、21日に帰国する予定。【伊藤奈々恵】
吉隈炭鉱:「奴隷並み、事実認めて」 首相の父経営の炭鉱で使役、元捕虜が来日
第二次大戦中、麻生太郎首相の父が経営する旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県桂川町)で使役させられた元連合国捕虜のオーストラリア人、ジョー・クームスさん(88)らが来日し15日、同県飯塚市で会見した。クームスさんは「奴隷のように働かされていた事実を(首相は)認め、謝罪してほしい」と訴えた。
来日したのはクームスさんと2人の息子、イギリス人元捕虜(故人)の息子の計4人。1942年に捕虜となったクームスさんは45年3~5月に川崎重工(神戸市)で、同5~8月に吉隈炭鉱で使役させられた。
クームスさんによると、労働時間は毎日12時間を超え、食事はご飯とうすいみそ汁だけ。何かあるたびに殴られ、80キロあった体重は終戦時には48キロにまで落ちたという。ある日、仕事を終えて炭坑から出た直後に落盤が起こり、穴の入り口がふさがれた。「一瞬遅かったら……」。その時のことが今も脳裏から離れないという。
麻生首相は今年1月、炭鉱での捕虜使役の事実を初めて認めた。クームスさんは強制労働に対する謝罪を求める手紙を首相に送ったが、返事はないという。クームスさんらは16日、吉隈炭鉱跡地の視察や住民との交流を予定している。【伊藤奈々恵】
航空写真や地図などを見ながら、当時をかみしめるように思い出していたクームズ氏(右から2人目)
麻生吉隈炭鉱跡を望む小高い丘で、終戦当時を知る原中悦男さん(左)たちから説明を受けた
麻生太郎首相の父太賀吉氏(故人)が経営した旧麻生鉱業の麻生吉隈炭鉱(桂川町)などで強制労働させられたと訴え、首相に謝罪を求め来日している元捕虜のオーストラリア人、ジョー・クームズ氏(88)たちが16日、同炭鉱跡などを見学し、地域住民と交流した。クームズ氏は、「捕虜収容所から農作業をする人たちが見えた」などと話し、当時の生活や労働状況を思い出していた。
■当時の記憶たどる 首相、面会は18日以降に
一行はまず、首相の親族が経営する麻生(本社・飯塚市芳雄町)を訪問した。クームズ氏によると広報担当者3人が応対し、強制労働への謝罪などを求めたが、同社は「麻生鉱業は解散しており、法的なつながりもない。過去の資料なども見たが、捕虜の存在は確認できなかった」と説明したという。クームズ氏は「謝罪してもらえず失望したが、今後も協議を続ける約束ができたので希望はある」と話した。
その後同炭鉱跡に移動。当時10歳前後で捕虜と交流もあった住民7人が案内。捕虜収容所があった場所や、当時の連合軍航空写真などを見ながら、クームズ氏は「あそこに鉄道が走っていた」「連合軍が投下したチョコなどを拾って、住民の卵や鶏肉と物々交換していた」などと遠い記憶をたどっていた。 案内した原中悦男さん(76)=同町吉隈=も「B29から落ちるパラシュートが花みたいだった。子どもはお菓子をもらおうと寄っていったもんです」と懐かしんでいた。
クームズ氏によると、フィリピンで日本軍の捕虜となり、1945年5月から約3カ月、同炭鉱で強制労働させられたという。麻生首相に謝罪と金銭的補償を求めるため、14日に来日。18日以降に面会を求める予定。
元捕虜「麻生首相は謝罪して」 旧麻生鉱業で炭鉱使役
記者会見する元連合国軍捕虜のジョセフ・クームズさん(左端)ら=15日午後、福岡県飯塚市
第2次世界大戦中、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県桂川町)で使役されていた元連合国軍捕虜のオーストラリア人男性らが来日、同県飯塚市で15日記者会見し「わたしたちに与えた苦しみに対し、麻生首相は国を代表し謝罪していただきたい」と訴えた。
来日したのは元捕虜のジョセフ・クームズさん(88)と息子2人、英国人捕虜だった故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん(62)の計4人。16日に首相の親族が経営する麻生グループの親会社「麻生」(飯塚市)や吉隈炭鉱跡などを訪問する。
クームズさんは1945年5~8月に吉隈炭鉱で労働。「落盤事故が相次ぎ恐ろしかった。12時間もの重労働と粗末な食事のために両ひざを痛めた」と振り返った。首相に謝罪と補償を求める手紙を何度も送ったが返事がなく「奴隷のような労働をさせられた事実を認めてほしい」と訴えた。
神戸で収容生活 元捕虜の男性来神
64年ぶりに神戸の地を踏んだ元捕虜のジョー・クームズさん=中央区東川崎町3
太平洋戦争中、捕虜として神戸市内で2年余りの収容生活を送ったオーストラリア人、ジョー・クームズさん(88)が17日、労働を強いられた中央 区の川崎重工業神戸工場や収容所跡を訪れた。来日は終戦以来、64年ぶりというクームズさんは「あの当時のすべてがつらい経験。『絶対に生き抜く』という 強い意志だけが支えだった」と振り返り、感慨深げに神戸の町並みを見つめた。
クームズさんは1942年2月、シンガポールで捕虜となり、同12月から2年3カ月、神戸の造船所でタンカーの組み立てなどの労働を強いられた。その後、福岡に移され、麻生太郎首相の父が経営した旧麻生鉱業の炭鉱で終戦まで働かされた。
「食事は水のような少量のスープとわずかな米だけで1日2回。空腹と長時間労働で倒れそうだった」。薄い布の服に木の番号札を首から掛け、毎日10時間近く、鉄鋼を運び続けた。80キロあった体重は48キロまで落ちたという。
収容された長田区の「丸山分所」では、100平方メートルほどの粗末な小屋に約100人がすし詰め状態で暮らした。思い出の地を巡りながら、クームズさんは同行する2人の息子に話し掛けた。「平和のために未来の世代に戦時中のことを語り継いでほしい」
来日を支援した市民団体「元捕虜・家族と交流する会」(事務局・東京都)世話人の有光健さん(58)は「日本では外国人捕虜の記憶が抜け落ちてしまい、問 題が置き去りにされてきた」と指摘。クームズさんは麻生首相に強制労働の認定と謝罪を訴えており、「多くの人に歴史的事実を知ってほしい」と話していた。(前川茂之)
元日本軍捕虜:豪州人、使役の造船所訪問 「事実学んで」--神戸
第二次大戦時、日本軍の捕虜だったオーストラリア人、ジョー・クームズさん(88)が17日、当時働かされていた神戸市の造船所や捕虜収容所跡地を訪れた。クームズさんは「戦争を二度と起こしてはならない」と強調し、「両国の若者たちに、捕虜がいた事実を学んでもらいたい」と訴えた。
クームズさんや支援者によると、陸軍に所属していたクームズさんは1942年2月、捕虜となり、同年12月~45年3月、神戸市の造船所で使役させられたという。その後、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県)で働かされた。クームズさんによると、造船所ではタンカーの部品の運搬などに従事。「97」という番号で呼ばれ、食事は1日2回、少量の米飯とスープだけ。収容所では約100人が同じ部屋で暮らしていたという。
17日夜に東京に移動、関係者を通じ麻生首相に面会と謝罪を求める。【金森崇之】
「父の体験伝えたい」 イギリス人元捕虜の家族 長崎へ
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/houdou/index.php?itemid=7655
幼いころから聞かされた父の捕虜時代の話。
長崎は、どのような場所なのか答えを探しています。
イギリス人元捕虜の故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん。
今回捕虜問題に取組んでいる市民団体の招きで来日し、収容所跡を回っています。
ジェームスさんの父故・マクアナルティさんは、第2次世界大戦で捕虜となり、1942年から3年間、香焼の捕虜収容所に収容され、近くの川南造船所で、使役されていました。
その後、福岡の炭鉱に移送されたため、被爆は免れましたが、造船所での過酷な労働を経験し、帰国後も日本に対するトラウマを抱えていたと言います。
今年で62歳。
父が亡くなった年を超えジェームスさんは、子供や孫の世代へ父の体験を伝えたいと考え、長崎訪問を決意しました。
戦時中、捕虜と一緒に川南造船所で働いていた、北御門 ノイ子さんを訪れ、当時の作業所の様子についても話を聴きました。
収容所跡地に慰霊碑を建設する運動をしている北御門さんの話に触れたジェームスさん。
21日まで日本に滞在し、捕虜に関する資料集めや、関係者への訪問を続けるということです。
麻生首相の父経営の炭坑で使役の捕虜会見
大戦中 福岡の炭鉱で使役
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