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88歳の元麻生鉱業の捕虜が、豪州から来日2009年06月12日
活動報告
2009年6月12日
88歳の元麻生鉱業の捕虜が、豪州から来日
6月14日から21日まで、戦時中麻生鉱業で使役されていた元捕虜とその家族が豪英両国から来日されます。
一行は、オーストラリアから3人、英国から1人で、14日夕刻到着し、戦時中抑留されていた福岡県飯塚市、長崎・神戸を訪ねる予定です。飯塚では、㈱麻生本社も訪問、炭鉱跡などを見学する予定です。東京滞在中は、豪・英大使、参院議長、国会議員、市民団体との面談・懇談のほか、日本外国人特派員クラブでの会見も予定しています。麻生首相にも面談を申し入れてあります。
私も、市民グループの皆さんと共に、捕虜の皆さんに同行します。
6/15(月)
午後 空路福岡入り
17:00-18:00 記者会見(ことぶき会館)
18:00 地元関係者主催の交流会出席(ことぶき会館)
6/16(火)
午前 ㈱麻生本社訪問・旧麻生鉱業吉隈炭鉱跡視察・地元関係者と交流
午後 住友忠熊炭鉱朝鮮人無縁墓地・犠牲者追悼堂「無窮花堂」訪問
6/17(水)
クームズさんら3人は神戸に移動
午後 元俘虜収容所跡地・川崎重工関係施設・「神戸港平和の碑」訪問
6/18(木)
午後 参議院議長面談・ 豪大使面談
議員との交流会(恒久平和議連主催)
18:00 歓迎夕食会(憲政記念館)
6/19(金)
午前 英大使面談
15:00 外国人記者クラブで記者会見
6/20(土)
午後 横浜・英連邦戦死者墓地訪問
来日豪英元捕虜・家族の紹介
1920年10月18日生(88歳)
1941年 5月 | 市民軍部隊(Citizen's Military Forces)に参加 |
1941年10月 | 豪・陸軍に入隊、ダボ兵営で基礎訓練受ける 第8歩兵訓練大隊 |
1941年12月 3日 | ミュリエル夫人と結婚 |
1942年 1月10日 | シンガポールへ向け「アクアタニア」号に乗船 |
1942年 1月26日 | シンガポールで下船 第8師団第19大隊第2中隊に配属 |
1942年 2月15日 | 捕虜となる |
1942年11月末まで | シンガポールの路上や神社で労働 |
1942年11月27日頃 | 「鎌倉丸」で航海 |
1942年12月 7日頃 | 長崎に着く 神戸の鷹取道へ列車でゆき |
1945年 3月 | 神戸空襲まで川崎造船で労働 福岡第26収容所へ移動 |
1945年 8月の終戦まで | 炭坑で労働 米軍の輸送で長崎、沖縄、マニラ、モロタイ、ダーウィン経由で約1ヶ月かかって帰国、帰郷 |
1945年10月13日 | シドニー着 |
1946年 1月 | 軍隊(陸軍)除隊 |
捕虜となった後、日本に送られ、神戸の川崎重工で2年働き、爆撃のため、1945年麻生炭鉱(福岡俘虜収容所第26分所)に送られ、過酷な12時間労働を強いられる。食料も不足し、80キロあった体重は終戦時に48キロまで落ちていたという。オーストラリア政府からは障害者年金を貰っているが、麻生鉱業・日本政府からは何も受け取っていないという。今年2月に麻生首相に以下の手紙を送付。
「親愛なる麻生首相
1945年、福岡捕虜収容所第26分所の一人の捕虜として、私は麻生鉱業株式会社の所有する吉隈炭鉱で強制労働に従事させられた。捕虜であった期間に、私の人権は著しく蹂躙された。それに加え、貴殿のご家族の会社は私の労働に対し、きちんとした支払いを一度もしたことがない。それゆえ私は、貴殿が日本の首相としてすみやかに下記の行動を取られるようお願いする。
- 私が苦しんだ人道に反する処遇および私が従事した強制労働に対する謝罪
- 過去64年にわたり今にいたるまで、私たち捕虜に対して歴史上の真実を無視してきたことへの謝罪
- 世界の規範にそって、歴史上の不正義を償う金銭補償の給付」
(*2009年6月現在まで回答なし)
クームスさんの長男 既婚、子供4人、孫3人 デザイン製図の仕事
クームスさんの二男 既婚、子供2人 仕事からは引退
福岡第26分所(麻生炭鉱)のイギリス人元捕虜・故パトリック・ジェームス・マクアナルティ(Patrick James McAnulty、1971年62歳で逝去)の息子。62歳。英国スコットランド在住。
パトリックは英重巡洋艦「エクゼター」の一等機関兵。1942年3月艦は日本軍に撃沈され、救助されてセレベス島(現スラウェシ島)のマカッサルに送られ、半年余りを過ごす。同年10月に長崎県香焼島の福岡第2分所に移送、川南造船香焼造船所で使役される。1945年6月に福岡県桂川町の福岡第26分所に移送、麻生鉱業吉隈炭鉱で使役される。帰国後1971年に逝去。物心ついた6歳頃から、父の捕虜体験を毎週のように繰り返し聞かされた。多くは、過酷な労働、飢え、日本人による絶え間ない残虐行為についての話で、明らかにトラウマがあり、日本に関するあらゆるものを忌み嫌っていたが、庭仕事に没頭したり、体験を息子に語ることによって心の傷を癒していたように思う。今思えば、自分は父のカウンセラー役を務めていたように思うと語る。5月に麻生首相に手紙を送って謝罪と補償を求めている。
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