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広島原爆記念碑碑文「過ちは繰り返しませんから」決定の経緯と意味2022年08月06日
広島原爆記念碑碑文
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」決定の経緯と意味
〇浜井信三広島市長によるこの碑文の決定に大きな影響を与えたのが、1950年にスイスの国際MRA(現在国際IC)の世界大会に出席し、他の欧州諸国を経て米国にわたり、アーリントン墓地や米国議会を訪問したことと言われています。
〇この歴訪には政財界の指導者72名が同行していました。中曽根康弘議員他7人の国会議員、石坂泰三東芝社長などの財界人、労働組合代表、楠瀬常猪広島県知事、山田節夫広島県選出参議院議員(後に広島市長)、杉山宗次郎長崎県知事、大橋博長崎市長などです。
〇このスイスの会議場は、戦後ドイツとフランスの和解の橋渡しとなった場所で、戦後数年間に約4000人のドイツ人と約2000人のフランス人が会していました。
浜井市長は、スイスでの体験を「どんな過ちがあっても、他人を責めない。ここには、「ごめんなさい。私が悪かった」と「有り難う」という言葉しかなかった。「心を変えれば、世の中は平和になる」という理念をそのまま、マウンテン・ハウス(MRA会議場)では実行していた。」(浜井信三著「原爆市長」)と語っています。
〇米国アーリントン墓地の訪問の影響は以下のように述べられています。
「浜井市長が、原爆慰霊碑に碑文を刻む事を思いついたのは、かつて、米国はワシントン市のアーリントン墓地にもうでたとき、そこの墓碑銘から受けた深い感動があったからである。」(小堺吉光著「原爆慰霊碑・碑文の陰に」)
〇碑文の意味について浜井市長は以下のように述べています。
「私はこの碑には、この前に立つすべてのものに共通の祈りと誓いを刻みたいと思ったのである。
エメリー・リーブスがいみじくもいったように、「その人々の殉難は、生き残れるわれわれが、将来の戦争の悲劇を、いかにして防止するかを学び得たときに、意味を持つことができる」のであって、この碑が現実に平和への努力につながらなければ、それはただの追想の石でしかなく、単に犠牲者を悲しむ一編の墓碑銘でしかなくなる。」
「この碑の前にぬかずくすべての人びとが、その人類の一員として、過失の責任の一端をにない、犠牲者に詫びることの中に、私は、反省と謙虚と寛容と固い決意とを見いだすのであって、その考え方こそが、世界平和の確立のためにぜひ必要だと考えた。
この碑の前に立つ人は日本人だけではない。それがどこの国のひとであろうと、同じ考えでなくてはならないと思ったのである。」(浜井信三著「原爆市長」)
〇他方、何故米国が原爆を投下したのに、この碑文となるのかという反対論もありました。
これに対し、浜井市長は以下のように答えています。
「私―『・・・開戦当時の緊迫した情勢下では軍隊に対して加えた真珠湾の一撃と、この世で初めての原爆を無警告で広島に投下したことを較べれば、人類に対する罪としては米国の方がずっと重いと考える。あなたはどう思いますか。』
浜井―『・・・君は[原爆投下]当時広島にいなかった。私は現場にいて自分も被爆し、且つあの惨状を目のあたり見たのだ。そこに大きな違いがある。この世の終わりかと思われるあの状況を身をもって体験した私の頭に、先ず浮かんで来たのは、誰のせいでこうなったかの詮索ではなくて、こんなひどいことは人間の世界に再びあってはならぬという痛切な思いだけだった。』」
(高田正巳著「被爆の詮索より平和」「濱井信三追想録」)
〇これに関連して、元々は「過ちは繰り返させませぬから」という案であったという話を国際MRA/ICの関係者から聞いたことがあります。これでは米国に対する恨みも含む言葉となり、永遠に恨みの言葉を残しては御霊に安らかに眠って頂けない、との考えで浜井市長が「過ちは繰り返しませぬから」で決定したという話ですが、確認はとれていません。
〇反対論もあった中で、この碑文存続が決まったのは1970年です。
「私も世界連邦政府主義者であり、人類共通の願いを表した『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』の碑文は変えるべきでないと思っている」・・・同年(1970年8月3日)記者会見で市長の公式会見とし碑文を変えないことを発表し、碑文存続が決まったのである。」(山田節夫広島市長談、中国新聞1970年3月18日)
いずれにしても、この碑文の意味が、世界での核廃絶の道につながることを心から祈念いたします。
浜井市長の欧米訪問については、私の拙訳書「日本の進路を決めた10年」に記載されています。https://y-fujita.com/books/
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