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参議院東日本大震災復興特別委員会における藤田幸久の質疑議事録2018年07月11日

活動報告

2018年07月11日

参議院東日本大震災復興特別委員会における藤田幸久の質疑議事録

○参考人(大西隆君) 時間を頂戴しまして、陳述させていただきます。
 お手元に、関係資料として事前にお届けしたもののほかに、机上資料として二点あります。そのロードマップ二〇二〇と書いた方が前半の資料になります。後半の最後の部分で拙稿、福島復興の現状と課題と書いた論考の一部を引用することになります。
 私は、福島12市町村の将来像に関する有識者検討会の座長をしております。これは二〇一四年十二月に設置され、九回の検討を経て二〇一五年の七月に提言をまとめました。その後、引き続きフォローアップのための会合を年に二回ないし一回のペースで開催してきています。今年は去る五月二十六日に第十三回の会合を開催したところでございます。
 この有識者検討会では、福島県知事が委員のお一人になっているほか、避難指示対象となった福島県内十二市町村の首長又は代理の方々が毎回出席されています。これら被災地の行政責任者の方々を通じてある程度被災地の実情を踏まえた議論ができているのではないかと考えております。特に、原発事故からの復興に国が責任を果たすという観点から、被災市町村の方が国に直接意見を述べることができる重要な機会ともなってきました。
 提言では、中長期的に、かつ広域の視点で将来像の検討結果をまとめています。一方で、二〇二〇年に開催される東京オリンピック・パラリンピックは福島の復興を世界にアピールするチャンスであるという観点から、将来像の検討に当たっては、目指すべき三十年、四十年先の地域の姿を示すことに加えて、二〇二〇年に向けた具体的な課題と取組を示しました。
 私は、東日本大震災の直後に政府が組織した東日本大震災復興構想会議に委員として加わりました。そのとき二か月余りで提言をまとめたわけですが、その中で、減災の考え、つまり、再び同じような津波災害に遭わない復興を実現するべきという観点を強調して、それが現在の復興にも生かされていると思っています。
 提言ではもちろん福島の復興にも触れたのですが、当時、原子力災害の全貌がなおはっきりしないということもあって、福島について議論が尽くされたとは言えませんでした。その後、復興庁ができ、こうした形で福島の被災地を対象とした復興への提言がまとめられるのに際して委員として加わることができたので、個人的にも残したことに携わる機会を与えられたという思いがございます。
 福島の被災地の復興は、二〇一七年三月から四月にかけて帰還困難区域を除くほとんどの地域で避難指示が解除されるとともに、福島復興再生特別措置法が改正されて新たなステージを迎えています。つまり、私どもの提言を実行するための事業をフォローアップという形でフィードバックを重ねながら進めていける段階に入ったと思っています。
 それでは、提言の内容を紹介させていただきます。福島復興に向けて七つの柱を立てました。
 一つ目は、産業、なりわいの再生、創出です。これには、基幹産業であった農林水産業の再生に加えて、新産業の創出が含まれます。特に、同時期に別な形でまとめられた福島イノベーション・コースト構想は、福島第一原発の廃炉事業と連動した技術開発、産業育成も含んでおり、福島十二市町村の新たな産業振興として重要と考えました。これらについては、ロードマップの一ページ目、右下のページで一ページ目にまとめております。
 二つ目に、住民生活に不可欠な健康、医療、介護の問題です。帰還者に高齢者が多いという現実があり、早めに帰還した方々にも生活関連の施設やサービスが復興していないことへの不安が強いので、国や自治体が健康、医療、介護に注力することが重要と考えました。
 三つ目は、未来を担う、地域を担う人づくりです。小中学校の地元での再開、ICT教育、ふたば未来学園、小高産業技術高校などでの先進的な教育、さらに新たな産業振興のための人材育成も重要であるとしています。
 四つ目は、広域インフラ整備、町づくり、広域連携です。地域の復興には、地域が相互に結ばれるとともに、広域的な拠点と緊密に結ばれることが不可欠という観点から、ふくしま復興再生道路の整備、JR常磐線の早期全線開通を取り上げ、さらに地域内の復興拠点を設けて、そこを中心に復興を図ることを提案しました。これは、特定復興再生拠点として福島復興再生特別措置法改正に盛り込まれたところです。
 五つ目から七つ目の柱が、観光振興や風評・風化対策、文化・スポーツの振興であります。
 特に、復興が十年目の節目を迎える前に開催される東京オリンピック・パラリンピックは、復興の進展を内外に示す機会となります。こうした提言の下に将来像実現ロードマップ二〇二〇、お手元の資料ですが、を作成して、毎年、有識者検討会で国、県、被災自治体も加わって進捗状況を点検しています。今年の検討会は、昨年の特措法の改正で特定復興再生拠点や福島イノベーション・コースト構想が盛り込まれた後に開催されたので、産業と生活の復興が本格的に動き出したと感じました。
 検討会での議論を通じて改めて浮かび上がった課題について、その要点を述べさせていただきます。
 設置法では、復興庁は二〇二一年三月末までに廃止するとされています。しかし、特に福島においては、その時期までに復興が完成するわけではありません。残念ながら、そういうことだろうと思います。したがって、二〇二一年度以降の復興の体制が関心事となってきました。私どもの提言では、原子力災害によって福島にもたらされた深刻な事態の記憶と教訓を決して風化させることなく、省庁の垣根を越え政府一体となって総力で実行していくべきであると述べ、震災から十年以降の福島の復興に向けた政府の組織の在り方について、今後の検討課題であるとしています。長期にわたらざるを得ない福島を始めとする東日本大震災からの復興に省庁横断体制をどのように継続していくのか、是非国会で議論していただきたいと思います。
 二つ目は、福島では、今後、数十年間にわたって廃炉事業が実施されることを重視すべきという点です。
 廃炉は、これから世界の多くの原発が直面する課題です。福島で開発される新技術、新たな知見は、今後の世界の廃炉事業に応用可能なものであります。是非、そうした視点で廃炉にももっと光を当てて、我が国の新たな技術や人材育成分野として位置付けていくことが必要だと思います。
 また、除染、中間貯蔵施設、放射性物質流出防止、さらに廃炉には既に多くの人材が投入されています。これらの方々が地域の新たな担い手になっている現実もあり、定住者として地域復興の一端を担ってもらうという発想も重要だと思います。
 第三に、復興の段階が市町村ごと、さらにはその中の地域ごとに異なることをどう考えるかです。
 二〇一七年春における大幅な避難指示解除後も残される帰還困難区域が相当部分を占める自治体では、本格的な復興はまだ先になります。種々の復興事業を実行していける地域と、まだ準備の段階が続く地域というステージの差異が生じています。いずれ全ての地域が本格的な復興活動を行える状態になるとしても、当面はステージのずれがあることを率直に認識して、自治体間の連携や協力を強めることが必要と私は思っています。
 この点は、有識者検討会で、特に有識者委員と地元自治体の首長さんとの間で意見が分かれたところでもありました。もちろん、特定再生復興拠点での除染を早急に行うことなどを通じて、避難指示をできるだけ早期に解除することが必要であることは言うまでもありませんが、国や県は、本格復興に時間の掛かる地域に対しても、各時点で最善の復興計画が実施できるように、長期にわたって復興に関わることが必要と思います。
 第四に、産業、生活や観光やスポーツに至るまで非常に多方面の復興事業が挙げられ、それらがロードマップの形で進捗管理されているのは重要なことだと思います。
 その上で、例えば育成された人材が、地域で新たに起こると期待されるロボット産業や再生可能エネルギー産業などの技術者や担い手になるなど、復興事業間の緊密な連携も重要なポイントだと思います。現在は、復興庁の下で多数の省庁が復興事業に一体的に関わっています。その中で生まれている事業間の連携関係が今後とも継続されるように、諸事業を横につなぐ機能が失われないようにすべきだと思います。
 最後に、有識者検討会座長の立場から少し離れて、私自身の意見も交えて述べたいと思います。
 福島では避難指示によって多くの方々がやむを得ずふるさと、つまりそれまでの居住地を後にしました。それから七年余りがたち、ふるさとへの帰還という点で人々の意識は多様になっていると感じます。
 復興庁、福島県、被災自治体が協力して行っている原子力被災自治体における住民意向調査によれば、東電福島第一原発に近い地域では五〇%前後がふるさとに戻らないと決めていると回答しています。また、年齢別に見ると、この回答は四十歳未満の年齢層に多く、高齢になると少なくなるという傾向があります。戻らない理由については、医療環境に不安があるから、原子力発電所の安全性に不安があるから、家が汚損、劣化し、住める状況ではないから、生活に必要な商業施設などが元に戻りそうにないからなどが上位に挙げられています。
 こうした意識の背景には、いまだ異常値を超える放射線量が多くの観測点で測定される自治体が存在していたり、さらに、住民が増えないことにも起因して、生活関連施設の復旧が十分とは言えないことなどがあります。もちろん、事故から相当の年月がたって、特に若い世代は新しい土地で新しい生活を開始して定着している人々がいることも想像できます。
 こうした現状を踏まえるならば、私は、福島においては人の復興と場所の復興、これを区別して考える必要があるのではないかと思っています。
 人の復興とは、被災した人々あるいはそこに新たに加わった家族がそれぞれ望む生活を行うことを国と東京電力は支援する責任を有するということです。特に、被災を理由としたいじめへの防止対策、甲状腺検査を始めとする健康管理、生活のスタートアップ等の支援は重要だと思います。
 一方で、被災地の場所の復興も重要です。私がこれまで述べた福島十二市町村の将来像に関する有識者検討会での議論は、この場所の復興に関わることが少なくありません。被災者の中で条件が整えばふるさとで生活したい人がいることは言うまでもありませんし、やがて人々が自由に生活できる地となってよみがえることは疑いがないのですから、そのための生活や産業の基盤を着実に整えていくことは重要だと思います。
 その意味で、福島の復興に当たっては、被災者の生活に寄り添った人の復興という視点と、被災地に着目した場所の復興という両方の視点が不可欠であると考えています。別な場所で生活を確立している人々の中にも、ふるさとを思う意識は強いと思います。
 私が会長を務めていた時期に、日本学術会議では、二重の地位、すなわち被災者が新しく生活を始めた地域と被災時に居住していた地域との両地域でそれぞれ住民としての権利を有し、一定の行政サービスなどを受けることができる制度を提言しました。被災地で自治行政機能が回復する中で、改めて制度として二重の地位を導入するべきではないかと考えております。
 私の陳述は以上でございます。御清聴ありがとうございました。
○委員長(徳永エリ君) ありがとうございました。
 次に、佐藤参考人にお願いいたします。佐藤参考人。
○参考人(佐藤大介君) NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク事務局長を務めております東北大学災害科学国際研究所准教授の佐藤大介です。
 本日は、お招きいただきありがとうございます。また、この間、東日本大震災被災地の復旧復興に御尽力いただいておりますことに、被災地住民の一人として感謝申し上げます。
 私たちの団体の概要についてはお手元の配付資料のスライド一ページ目を御覧ください。平成十五年七月二十六日に発生した宮城県北部での連続地震をきっかけに発足いたしました。地域の古文書資料を災害その他の消滅の危機から守る活動に参加しています。活動を通じて、資料を守ることはもちろん、地域住民や行政とのネットワークづくり、さらには歴史資料を生かした地域づくりへの取組も行っております。
 本日は、東日本大震災で被災した古文書史料の救済の現状と課題及び今後の復興における可能性についてお話しさせていただきます。余りなじみのない分野ですので、日本列島に残る古文書の意味という前提のお話をしてから、震災後の活動についてお話しさせていただきたいと思います。
 スライド二ページ目は、かつての江戸時代の仙台藩領、これは今の宮城県全域及び岩手県の南部に相当するわけですが、その旧家二軒に残された古文書の保管状態を映したものです。日本の江戸時代に当たる十六世紀から十九世紀中頃までに作成され、今も各地の地域社会に残る古文書の質量は圧倒的なものであって、私はこれを知られざる世界記憶遺産などと呼んでおるのですが、実は、スライド三でも示しましたが、地域社会にこれほどの古文書が残っている国や地域は実はほかにはないのです。
 参考をスライドの三枚目に示しましたが、推計二十億点という試算もあります。これ、一都道府県当たり四千二百五十万点ということになります。参考までに、宮城県の博物館など公的施設に収められている古文書は大体二十万点ほどでという、私の方で計算しましたが、それから比べればいかに膨大な史料が手付かずのまま残されているか、御理解いただけるかと存じます。
 これほどの史料が残っているのは、日本の社会が文書のやり取りを前提にして政治や社会を運営していたこと、それから、それに加えて庶民たちが自らの生活を豊かにするために文書や文字を使いこなしたという、そういう歴史的な経緯によるものです。つまり、残っていること自体が日本の政治、歴史、文化的な特徴のあかしであるということになります。
 このような史料を収蔵する公的機関は当然あるわけですが、例えば市町村当たりの文書館の設置数は千六百三十八自治体中三十八自治体であります。それから、自治体の予算や専門職員の不足もあり、大半の古文書には公的な保護が行き届いておりません。
 スライド四ですけれども、地域社会では所蔵者や地域住民により自主的にそれらを継承する仕組みと、公的な財産であるという価値観が継承されてきました。しかし、戦後以来の社会の変化、価値観の変化に伴い、古文書を守り伝える仕組みや意識は急速に薄れています。
 この状況を加速させるのが巨大災害であります。災害による古文書自体の被災や保管場所が被災、例えば旧家の土蔵ですとかそういうことが失われることによって、もはや所蔵者や地域で古文書を継承し続けるのは困難な状況が広く起こり、地元の歴史資料は廃棄という形で一挙に失われるということになるわけです。
 このような問題、スライド十、五になりますが、このような問題が自覚されるきっかけになったのは、平成七年一月十七日の阪神・淡路大震災でした。その被災地での救出活動をきっかけに、各地で災害が起こるたびに歴史関係者を中心に市民や行政と連携して、被災した歴史資料の救出や失われつつある地域の歴史資料を守ろうとする史料ネットワークが各地にできています。現在、十九の団体が活動しておりますが、今次の西日本豪雨で被災した岡山県と愛媛県でも既にそれぞれの史料ネットが救出活動に入っております。それから、広島県も活動が中断しておりましたが、史料ネットが再興されて救済に、対応に当たるということを伺っています。
 スライド六、七に行きますが、二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災では、多数の人命、財産、かけがえのないふるさとの風景とともに、各地の歴史的な歩みを証する無数の古文書も失われました。完全な所在の調査というのが行われていませんので、被災地でどれほどの史料が失われたのか知るすべはありません。無数と言わざるを得ません。
 スライド六、七は、一九九九年から二〇一〇年まで、宮城県北上町、現在の石巻市北上町の町史編さん事業で調査した旧家の事例です。古文書が収められていた土蔵は津波で跡形もなく消滅いたしました。北上町史で調査した旧家十三軒のうち七軒、約一万五千点の古文書が津波で消滅しましたが、震災前に撮影した画像は残りました。災害前に防災のためにこういう古文書の調査を行っていくことの重要性を示す最も悲しい実証となってしまいました。
 一方、津波で被災しながら辛うじて消滅を免れた地域の歴史資料について、宮城では私ども宮城史料ネットが、先ほど示しました各地の史料ネットワークや市民ボランティア、また文化庁による文化財レスキュー事業というものが立ち上がりまして、それと相互に連携しながら救出活動を行いました。
 スライド九は、平成二十三年四月八日に実施した石巻市の本間家でのレスキューの様子です。江戸時代から石巻で海運や醸造業を営んできた旧家で、周辺の住宅が津波で押し潰される中、この土蔵のみが奇跡的に倒壊を免れました。
 スライド十ですが、被災した史料は仙台など安全な場所に一時搬出し、その後、津波で海水や泥をかぶった史料への応急処置を施します。どういうことをやるかというと、本当に紙を真水で洗うという、そういう作業などを繰り返して、ひたすら行っていくということになります。
 スライド十一が、私どもが震災発生後から対応した活動の範囲と件数を表したものですが、百件を超える所蔵者から約十万点の文書を救出し、一時保管をしています。震災から七年以上経過した現在でも復興事業に伴う家屋解体などに伴う救出依頼が散発的に続いております。
 今後の課題、スライドの十二に示しましたが、震災から七年以上が経過しましたが、活動に終わりは見えません。
 一方、今後の復興への取組に古文書を活用していくということも含め、多くの課題が残されております。実は、初動の一時搬出もまだ続いています。散発的な事案、宮城や茨城などでも同様で、これは復興事業の進展に伴う家屋の解体というのが進んでおりますので、そうしたことによるものです。福島では原子力災害がございまして、その被災地での活動がようやく途に就いたばかりという、そういう状況であります。
 第二に、救出した史料を今後中長期的に保存し、受け継いでいくための先行きは不安です。
 約十万点の史料を救出、処置しましたが、多くの被災史料は大学や自治体が用意した保管場所に一時的に置いてあるだけです。所蔵者が土蔵を再建したり、個人で保管場所を用意するというのは難しいわけです。ここはもう公的な支援をお願いしたいところですが、博物館は平時において収蔵品の保管場所がもうないという状態もありますし、さらに被災自治体には元々そういう公的施設がないという自治体も多いという、そういう現状がございます。また、応急処置はもうあくまで当座の危機をしのいだだけですので、物理的に安定した形で中長期に保存するには本格的な修復、修理が必要となる場合も多数あり、そこには経費が当然必要になってきます。
 最後に、史料を復興に活用していくには救出した史料の調査研究が必須です。その専門的な知識を持った人員というのは市民ボランティアに比しても圧倒的に不足しておりまして、もう本当に長期間地域に根差して継続して取り組む専門知識を持った人員の配置が不可欠だというふうに考えております。
 では、そういう巨大災害においてそうした古文書や歴史資料を救うということにどんな意味があるのかということを最後に御紹介したいと思います。
 一つは、スライドの十三から十五までお示ししました。これは、震災後に津波や地震を古文書から復元するということで、報道など御覧になった先生方も多いと思うのですが、私自身は江戸時代の飢饉の研究をしておりまして、気象現象の復元ということで、西暦一九三五年八月に宮城県を襲った台風の進路の復元と被害状況を古文書から復元したものであります。
 台風の進路の復元などは、全国にある多数の古文書記録を調査することで、日本だと恐らく百年分の、江戸時代に限って百年分の進路の復元などができると思いまして、これは太平洋高気圧の勢力など当時の地球環境を明らかにするというそういうことにつながる活動です。これは実はむしろ海外の研究者には注目をされているという現実がありますが、古文書の可能性というのはもちろん災害の歴史を調べ、これはもう災害対策の基本だと私どもは思っているのですが、それだけにとどまるものでは、災害という一分野にとどまるものではございません。
 スライド十六、これは市民ボランティアの活動の様子でございます。もう本当に無償ボランティアでございまして、退職者や高齢者の方に支えていただいているという状況です。
 昨年一年も三百三十三人の延べの協力者を得ているのでありますが、参加した方の声として、力仕事はできないし、車がないので津波被災地でのボランティアも参加できず、まあ仙台の方ですけれども、被災地にいながら被災者ではないということに後ろめたさを感じていたというそういう女性が、とにかく何か人のためになる、そういう場を与えてもらったということを述べております。また、日常的にそういう古文書、歴史に触れることにより、参加者が歴史への興味を高め、ボランティアを対象とした古文書解読の講座といいますか、ボランティアの方が自分たちで教えてくださいと言ってきて、その古文書の講座を、サークルを開いたり、歴史探訪、史跡探訪の会などを開かれるようになっております。そういう対応が高齢者にとっての災害ボランティアを通じた社会参加の場ともなり、心理的な回復をも促しているということになります。
 スライド十七ですが、被災地の古文書保全活動には大学生も多数参加しております。
 このスライド十七の宮城県丸森町の事例では、五年で六十名ほどの学生が参加して、古文書の調査、それから年度末一回展示会をやりまして、町内外から毎回百名前後が来場しています。丸森町も原発の放射性物質の被害ですとか、その風評被害に苦しんでおるところで、こうした歴史の掘り起こしが復興支援でもあり、また地域の活性化につながるのではないかと考えております。学生四名ほどが自治体学芸員や自治体の文化財担当官に就職しましたが、今次の文化財保護法改正で求められている地域の歴史、文化を活用できる人員を育てるという、そういう役割も果たしておるということになります。
 最後に、被災地、被災者にとっての意味でございますけれども、スライド十八は、そのレスキューを行った石巻の本間家土蔵が地域の交流拠点として再生したという事例です。
 明治三十八年、一九〇五年に建てられた土蔵については、一度解体を所有者が決断しましたが、建築調査や地元内外の支援によって保存が実現し、現在では、各種の行事の拠点、結婚式を挙げたりとか、そのボランティアの方が挙げたりとか、中は史料館として、救出した古文書や震災後の資料が活用されています。こちらには現在、三年で二千人ほど訪れているということですが、震災前後の歴史を語りつなぎ、人々が交流する場となっております。
 被災者にとっての古文書やふるさとの歴史、レスキューを契機に、古文書が語るふるさとの歴史を通じて、自分が生きる意味や価値を見出したとか、歴史を知って地域の発展に活動していこうという前向きな反応が寄せられています。これは、古文書の語る歴史が精神的に打ちひしがれた人の心理的回復を促し、さらに、そこから立ち上がっていこうというレジリエンスを涵養させられるという可能性を示すものでして、この点については、今、臨床心理学者との共同研究で研究しており、間もなく論文も公表される予定になっております。
 被災地では、今後、心の復興が求められる段階だと考えられます。被災者からは、建物の復興だけではなくて、歴史や文化の復興についても大事にしてもらいたいといった声も寄せられております。残って再建に取り組む人々、やむなくそこを去る人にとって、ふるさとの歴史は大きな歴史を果たすと考えております。もちろん、人命や社会基盤の整備といった優先順位というものがあると存じますが、こういう歴史、文化の再生、復興が軽んじられていいとは私は思いません。まさに人間が人間であるその根本がそういう歴史や文化であるというふうに考えております。
 今後、多数の課題がございますが、是非そうした公的な支援というものもお願いしたいということを申し上げまして、私からの意見陳述を終わります。
 御清聴ありがとうございました。
○委員長(徳永エリ君) ありがとうございました。
 次に、熊本参考人にお願いいたします。熊本参考人。
○参考人(熊本美彌子君) 避難の協同センターの世話人、熊本と申します。
 私は、原発事故で、田舎暮らしをしていた福島県田村市から東京に避難しました。私の福島の家は原発から三十・五キロのところにあります。二〇一一年の九月末まで緊急時避難準備区域とされて、除染も済んだとされているところですけれども、二〇一五年十二月に玄関先三メートルのところの土の放射性セシウムの量を測りましたら平米当たり八万ベクレルありました。これは、放射線管理区域の基準が平米当たり四万ベクレルなので、二倍の量です。
 除染されたのですけれども、有機農業、無農薬で栽培をして豊かな土にしていたのですけれども、その土を剥いでしまって砂を入れられたので、それから有機農業をするというそういう希望がなくなりました。
 阿武隈山地の山中ですので、除染をしていない林からガンマ線が飛んできて、私の土地は除染してあっても一メートル高さの方が一センチ高さよりも高いところがあります。例えば、一メートル高さのところで一時間当たり〇・四六マイクロシーベルト、一センチ高さのところでは〇・三六マイクロシーベルトというふうになっております。
 それから、田村市の基準では屋根は除染していないので、二階の寝室は一時間当たり〇・三六マイクロシーベルトです。二階のベランダから一階の屋根を測りましたら、一時間当たり〇・六〇マイクロシーベルトでした。除染の基準は一時間当たり〇・二三マイクロシーベルトとされております。
 放射性物質は公平に飛散したのではありません。二十キロ、三十キロのところで放射能の雲はとどまりませんでした。それから、県境でとどまったわけでもありません。あちこちにホットスポットが存在しております。線を引くということの不合理性というのを政治は認識すべきではないかというふうに思っております。
 昨年度、帰宅困難区域を除く避難指示区域が次々と解除されました。避難指示は、年間ですが、二十ミリシーベルトを超えるから避難しろということだったのですが、解除は二十ミリシーベルトを下回るからということでした。これはICRP二〇〇七年勧告に基づくというふうに説明されています。つまり、二十ミリシーベルト以下ならば健康に害が出ないと。それが証明されたからではありません。
 二十ミリシーベルトという数字は、科学、サイエンスの問題ではなく政治の問題だと思います。政治の問題であるならば、当事者たちの意見を聞く、当事者たちが納得できる仕組みをつくることが前提になければならないと思います。しかし、私たち当事者が意見を聞かれることはありませんでした。この場は七年ぶりの参考人招致だそうですけれども、このまれな機会にお呼びいただきまして意見を言わせていただくのは大変有り難いと思っております。しかし、同時に、意見は聞きましたという形だけになるのではないかということを危惧しております。
 避難指示の解除の説明会もそうでした。当事者たちは納得していません。区域外避難者の住宅打切りは昨年三月末でしたが、この決定は福島県知事が決めたことで、県議会で検討、議決されたわけではありません。国会でも何もなされませんでした。
 生活の基本は住まいです。住まいが安定することが大切だと思います。原発事故で避難した人は全国で十六万人、県外に避難した人は十万人を超えると言われています。住まいは災害救助法によって提供されました。県外は全て建設型仮設ではなくて恒久的な建物だったのですけれどもみなし仮設とされて、二年経過後は一年たびの更新でした。そして、二〇一七年三月で打切りを福島県知事が決めたのです。理由は、応急救助の時期を過ぎたからだということでした。でも、原子力災害は長い時間が掛かる災害です。大量に放出された放射性セシウム137の半減期は三十年です。事故から六年で消えるものではありません。
 原発事故後、全国会議員の賛成で成立した子ども・被災者支援法という法律があります。皆様のお手元にお配りしてあります資料の最後のページにその被災者支援法の条文が書かれております。七ですね。放射性物質による放射線が人の健康に及ぼす危険について科学的に十分解明されていない、国がこれまで原子力政策を推進してきたことに伴う社会的な責任について明記し、居住、避難、帰還の選択を被災者が自らの意思で行うことができるよう、医療、移動、移動先における住宅の確保、就業、保養などを国が支援するというふうに書かれておる法律です。住宅の確保は国が支援すると定めてあるということは、これは国の責務であるということですよね。しかし、対応はなされませんでした。
 打切り後の実態調査を福島県に対して、被害者の団体、三つの団体が共同して、きちんと調査をするように、実態調査をするようにという要請を昨年から何度も何度もしておりますけれども、福島県は一度もそれに応じてくれていません。
 福島県がやらないのに、ほかの自治体がその調査をやっています。例えば、新潟県では、全国の自治体に、民間賃貸住宅に入っていた区域外避難者が打切り後どこに生活しているのかという調査をしました。これは皆様のお手元にある資料の一番最初のページに書かれてある円グラフです。すると、七九%が福島に帰らずに避難を継続しています。帰ったのは一七%です。東京都も、みなし仮設として提供していた都営住宅の入居者が一七年四月以降どこに生活をしているのか調べました。その結果、都内に引き続き生活している世帯が約七〇%ありました。
 放射線の健康被害というのは、低線量だと、例えば累積で十ミリシーベルトに達すると〇・〇五五%のがん死になる、しかし喫煙などほかの要因に隠れてしまうほど小さいとICRP二〇〇七年勧告は言います。しかし、自発的な喫煙と自発性などない、便益など全くない私たちが浴びた放射線、その被曝を自発性のあるものと同列に置くという比較については、私ども避難者は納得できないと思います。
 山形の避難者から聞いたことがあるんですけれども、避難はお父さんとお母さんで決めたよね、だけど帰るときは自分たち子供の意見も聞いてよねって母親が言われたというんですね。だから、事故から七年もたって、子供たちにとっては避難先がふるさとになっているということだと思います。このような実態からすれば、帰還政策というのは綻び出していると言えるのではないでしょうか。
 私たち避難の協同センターは、三月末から区域外避難者の方々にヒアリングを行っています。東京都内で二回、それから新潟県、昨日は福島県でやりました。
 昨日の川俣町山木屋の人は、千二百名の人がいたけれども、帰ったのは三百十人だと。みんな後期高齢者、七十五歳以上の人で、二十代や三十代の人は一人も帰っていない。自分も、家族が大家族で生活していたのに、今は四つに分かれている。放射能から逃れることができない生活だと。この苦労を何で自分たちがしなければならないのか、いつになったら平穏に暮らせるんだろうかと言いました。それから、一度避難して戻った母親も、安心した暮らしがしたいのにと涙ぐみました。
 新潟では、公的住宅になかなか入れない。民間賃貸住宅に入っているけれども、来年度から福島県の家賃補助がなくなってしまう。そうすると、収入が十万円減っているのでとても不安だと訴えました。そして、子供が障害を持っていて医療費が掛かるので、自分が体調が悪くても医者に行くのを我慢してしまうんだと言いました。
 東京では、国家公務員宿舎に福島県と契約して入居している人が、住まいと駐車場で一万円近い値上げを四月の二日になって通告されました。この契約をすると、来年三月で出なければならない。出ていかないと使用料の二倍が請求される。しかし、都営住宅に応募してもなかなか当選できない。一体どうしたらいいのかと言いました。
 そこで、私たち避難の協同センターでは、今まで二回、今年に入ってからですが、二回、復興庁から財務省、国交省、福島県に来ていただいて交渉する場を持ちました。しかし、まだ解決に至っていません。私たちが把握している区域外避難者の実情と政府、福島県の認識がずれているということを実感しています。今ある問題をきちんと捉えて真摯に対応していただきたいと思います。区域内避難者も、来年三月で住宅の無償提供を打ち切られるのではないかと恐れています。区域内の人は賠償を受け取っていると言われますけれども、元々賃貸に住んでいらした方は賠償を受け取っておりません。
 資料の一ページの一の括弧三に精神的なダメージの問題が書いてありますけれども、身体的、精神的に問題を抱えている人々も多くいます。子ども・被災者支援法の理念に立ち返り、被害者の人権を守る取組を国会議員の皆様にお願いいたします。
 具体的には、資料の六にあります。
 六、避難の協同センターからの提起。一、区域外避難者が安心して生活できる居住の保障をしてください。二、民間賃貸家賃補助の継続をしてください。三、希望する避難者の公営住宅特定入居を対象としてください。これは優先入居だと非常に外れる人が多いので、優先入居ではない形で入居させてくださいということです。それから、四番は、安心して生活できる居住の保障が実現するまで国家公務員住宅の継続居住期間の延長をお願いしますということです。皆様、よろしくお願いいたします。
 どうもありがとうございました。
○委員長(徳永エリ君) ありがとうございました。
 次に、森松参考人にお願いいたします。森松参考人。
○参考人(森松明希子君) 森松明希子と申します。発言の機会をいただきまして、心から感謝申し上げます。同時に、これまで七年間、全国に散らばる被災者、避難者の御支援に心より感謝申し上げます。
 私の避難先の大阪では、先日、大阪府北部地震に見舞われまして、さらには、その一週間後には、西日本全域が大水害に遭い、多くの方々の大切な命が失われてしまいました。哀悼の意をささげますとともに、被災された皆様方におかれましては、心よりお見舞い申し上げます。被災されている皆様方が平穏な日常の暮らしを取り戻されますよう心から願っています。
 私は、東京電力福島第一原発事故から二か月後の二〇一一年五月、ゴールデンウイークの大型連休をきっかけに福島県郡山市から大阪府大阪市に避難をすることになりました。現在、子供たちは二人いますが、大阪市に避難をしています。いわゆる母子避難です。夫は今も福島県郡山市で原発事故前と同じ職場で働き、家族の避難生活を支えています。夫が福島県郡山市に残っているのは、国が指定した強制避難区域に該当しないからです。
 ゼロ歳で大阪に連れてきた私の娘は七歳になりました。ゼロ歳のときから父親と一緒に暮らすという生活を知りません。娘の年齢が避難生活の年数と重なります。三歳のときに避難した上の息子も同様に、七年間で随分の苦労を重ねたと思います。二人の子供たちは、福島県民でありながら大阪の小学校に入学をさせていただき、現在は小学二年と五年生になりました。子供たちの父親である私の夫は、そんな二人の子供の日々の成長をそばで見ることができないこの七年間を過ごしてまいりました。
 本日、この場で私が最も伝えたいことをお話ししたいと思います。
 多くの人たちが、自分の身が危険に直面したら逃げることは当然で、逃げることは簡単にできると思い込み過ぎていると私は思います。でも、東日本大震災、その直後に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故を経験して、そんな当たり前のことができない社会的状況があることを私は身をもって知りました。そして、全ての国民が現在進行形でそれを目撃し続けていると思うのです。
 火事が起きれば、人は熱いから逃げ出します。地震で家が壊れれば、崩れて下敷きにならないようにその場から離れます。津波が海の向こうから見えれば、人は波にさらわれないように高台に上って走って逃げます。津波てんでんこという教訓化された言葉によって、どれほどの尊い命が救われたでしょうか。
 他方、原子力災害はこれらの自然災害とは異なり、明らかに人災です。漏れ出てくるものは放射能です。放射能は色もありません。においもありません。低線量であれば痛くもかゆくもなく、人間の五感で感じることはできません。
 そのような原子力災害、放射能災害がもたらす核被害について、私たち市民社会は、被害の実態をきちんと把握し共有できた七年間だったのでしょうか。放射能てんでんこを教訓としてきたでしょうか。むしろ、逃げずに復興、オール福島、頑張ろう東北、きずなというきれいで美しい言葉に覆い隠され、放射能汚染、被曝という核災害と正面から向き合ってこなかったのではないでしょうか。
 原子力を国策として進めている国が、そして原子力産業により莫大な利益を得ている巨大企業である東京電力が、きちんと責任を持って放射線を管理し、管理できない状態になれば速やかにそれを人々に知らせ、状況をつぶさに隠蔽せず公表し、汚染状況を詳細に周知徹底し、環境汚染や人の健康についての危険については警鐘を鳴らし、適切な避難の指示や勧告を行い、そして制度と保障を行わなければ、一般の人々は自分の命の安全を確保することは困難です。ただ逃げるという選択すら容易ではないのです。
 福島第一原発事故によって避難を余儀なくされた人々というのは、国際社会が指摘するとおり、国内避難民に該当します。それは、県境や行政区画で線引きされた強制避難区域とそれ以外とを問いません。国連の国内強制移動に関する指導原則、GPIDと言ったり、国内避難民に関する指導原則とも呼ばれていますが、二〇一七年の国連人権理事会の普遍的定期的人権状況の審査において、原発事故関連について、日本は四か国からの勧告を受けました。そして、日本政府はそれを受け入れ、同意し、フォローアップすると返答をしています。同原則によれば、望まぬ帰還の強要は許されず、また、健康を享受する権利についても警鐘が鳴らされています。
 これら国際社会からの指摘に対し、個人の尊厳、基本的人権の尊重をベースに、国家の災害国内避難民に対する保護義務の履行として、国際的視野と視点を持って、どうか国会議員の先生方には真摯に創造力を持って被災者の声に耳を傾けていただきたいと思います。
 母子避難を決心するまでの私の二か月間というものは、地震直後の福島での混乱の中、パニックを起こさないように、ただひたすら、終息するから、復興、頑張ろう東北との言葉を信じて、とても違和感のある生活に耐えていました。健康に直ちに影響はございませんと繰り返すばかりの当時の報道とは裏腹に、子供たちを一切公園には出さず、長袖、長ズボンで、外出時はマスクを着用させていました。外遊びをさせない、洗濯物を外に干さない、窓を開けない、このようなことが当たり前になっていき、とても普通の暮らしを送ることができる状況ではありませんでした。週末が来れば、家族で車に乗り込み、隣の県の山形県や新潟県まで高速道路をひたすら走り、普通の町中にあるようなブランコとか滑り台があるだけの公園を見付けて、小一時間ほどそこに三歳児の息子を降ろして遊ばせるのです。で、また何時間も掛けて福島に戻ってくる、そんなおかしな生活を続けていました。
 私の住んでいた郡山市は、福島第一原子力発電所からは六十キロメートルほど離れていますが、当時は同心円状に避難指示、屋内退避命令が広げられていき、徐々に放射能汚染地域が広がっていく恐怖におびえる毎日でした。それでも、国はより危険な地域から順次人を避難させてくれるものだと私は信じていました。
 私が一番衝撃を受けた出来事は、避難所で、福島の避難所です、原発事故から一か月近くたとうとする頃、テレビのニュースで、東京の金町浄水場の水道水から放射性物質が検出されたとの報道でした。福島第一原発から二百キロメートルも離れている東京で放射性物質が検出されて、六十キロメートルの郡山の水が汚染されていないはずはありません。実際、翌日には、福島市や郡山市などの水も汚染されていると報じられました。
 しかし、報道がなされても、地域住民全てにペットボトルの水が行政から配られるわけではないのです。この国の多くの人が、福島第一原子力発電所の事故により水道水が放射能により汚染されたという事実は知っています。しかし、私たち周辺地域の住民が、放射性物質が直ちに、たとえ直ちに影響はない程度であるとはいえ、放射性物質が検出された水を飲まざるを得ない状況に追い込まれ、それを飲むという苦渋の決断をしたということは知られていません。また、その水を飲んだ母親の母乳を赤ちゃんに飲ませるという過酷な決断を迫られたことも知られていません。
 あのとき、どれだけの放射線を浴びたのかも分からない上、私たちは汚染された水を飲み、たとえ直ちに影響はなかったとしても、一生涯自分や子供たちに出てくるかもしれない健康被害の可能性と向き合っていかなければならないという現実がここにあるのです。それは、不安とか心配とかそのような軽微な形容で表現されるものではありません。私たちは、被曝という事実、それから被曝による健康影響という恐怖とあの日から向き合わされ続けているというのも一つの事実なのです。
 避難して初めの一年間は、いつ福島に戻れるか、いつになったら家族四人でまた再び一緒に暮らせるのか、そればかりを考えていました。これほど長期にわたり見通しの立たない避難生活を送り続けることになるとは、避難した当初は考えてもいませんでした。避難生活は、苦痛以外の何物でもありません。ですが、七年たち、次々と明らかになっていく客観的事実から考えれば、子供の健康被害のリスクを高めることになるという、戻る、帰還という選択は、少なくとも今の私には考えられません。
 当然のことながら、放射能汚染は強制避難区域や福島県境などの行政区域で止まるわけではありません。風向きや降雨、地形などによってホットスポットが避難元には至る所に点在することが分かっています。七年たった今でも、私の避難元には、自宅の目の前に除染で出た放射能の袋詰めのフレコンバッグが何百個も並んでいます。その環境に幼い我が子を戻そうとは私には考えられません。それと同時に、そのフレコンバッグを目の前にして、同じように、この国では同じ母親が、子供が、人々が暮らしているという現実にどれだけの方々が思いをはせ、対策を講じた事実がこの七年間であったでしょうか。
 七年前、震災直後から、長崎から放射線の専門家という方が福島にやってきて、にこにこ笑っていれば大丈夫と触れて回りました。鼻血は放射能を心配し過ぎるお母さんの気のせいです、小児甲状腺がんは百万人に一人か二人とかしかならない希有な病気ですから、チェルノブイリの事故と福島の事故は違うのだ、避難をするなんて神経質過ぎる、ナーバスだという風潮が次々につくり上げられていきました。ですが、七年たって、百万人に一人か二人しかならないはずの小児甲状腺がんは、福島県内の十八歳未満の子供たち、子供たちは百万人もいません、三十七万人近くしかいませんが、を調べただけでも、年々増加し、現在二百人を超える人たちにがん又はがんの疑いと多発しています。
 日本国憲法の前文には、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すると書かれています。私は、東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、放射線被曝の恐怖から免れ、平和のうちに生存していると思えたことは一日たりともありません。あの日、福島の空気を吸い、福島の水を飲んだ私たちにとって、被曝は現実の恐怖以外の何物でもなく、避難できたからそれで終わりではないのです。私たちはずっと、この被曝という事実とその恐怖を抱えたまま、健康被害が発症しないことを祈ることしかできないのです。それは具体的に言うと、健康調査を丁寧に追跡していき、いつでも医療機関にアクセスできるという、そういう制度が保障されているという意味です。
 子供たちに甲状腺の検査を受けさせるたび、胸が押し潰される思いがします。検査結果の通知を開封するたび、手は震えます。それは、避難しているお母さんも外に出たお母さんも同じだと私は思います。だからこそ、原子力災害による被曝という命や健康に関わる事実からは目をそらすことなく、経過をより慎重に、これ以上の無用な被曝をできる限り避けるという被曝防護の対策を実施し、健康被害のリスクを少しでも取り除く努力が必要なのではないでしょうか。
 私は、子供の命や健康、そして未来を守るために、ただ避難を続けたいだけなのです。それは、避難という選択が放射線被曝から最も直接的に身を守る行為だからです。たとえ圧倒的多数の人が避難するという選択肢を選ばなかったとしても、無用な被曝に対して絶対的に被曝を拒否する権利は一人一人にあるはずです。その選択をすることによって尊厳が踏みにじられることもあってはならないと私は考えます。
 放射能は目に見えません。でも、少なくとも、全国四十七都道府県に実在する避難者の存在、国際社会はこれを国内避難民と認識していますが、その存在は誰の目にも見えているはずです。たとえ正確な避難者の人数が調べられもせず、実態が把握もされていなかったとしても、避難をした人々の存在そのものが福島事故による放射能被害を見える形で映し出しているのです。
 何度でも繰り返します。避難の権利、すなわち、放射線被曝から免れ、健康を享受する権利は、人の命や健康に関わる最も大切な基本的人権にほかなりません。誰にでもひとしく認められなければいけない権利です。そして、これは避難した人たちだけの正当性を主張するものでもないのです。少しも被曝をしたくないと思うことは、人として当然であり、誰もが平等に認められるべきだと私は思います。また、これから先、将来のある子供たちに健康被害の可能性のリスクを少しでも低減させたいと思うことは親として当然の心理であり、子供の健やかな成長を願わない親は一人としていないと思うのです。そこに、一点の曇りもなく放射線被曝の恐怖があってはならないと思うのです。
 たまたま運よく条件が、様々な条件に恵まれた人たちだけが被曝から遠ざかることができたというようなことで本当によいのでしょうか。今、次々になされる施策、法律で定められている年間一ミリシーベルトを超える放射線量が確認されても、そして将来にわたる累積被曝量には目を向けることなく、強制避難区域をどんどんと解除し、人を戻す、帰還させるという政策にだけ心血を注いでいるように見えます。他方で、避難者にとっての命綱である支援住宅の打切りなど、これらの非道な施策により、幼い子供の被曝量を少しでも避け、避難を続けていたいと願っても、泣く泣く帰還するしか選択肢がなくなるという世帯もあるということは、極めて不均衡かつ不平等だと私は思います。
 そもそも、避難するという選択肢を選び、安心して避難を続けるという道筋が示される制度は、この七年間、七年以上経過しても何一つ確立されていません。原発事故当初から避難したくてもできない世帯もまた苦しんでいるという事実、その声はいずれの施策や制度に反映されているのでしょうか。放射線量の高い地域にとどまり、日々放射線と向き合う暮らしに対して、いつからでも被曝を回避し、被曝からの防護の手段を講じるような施策や制度は実施されたのでしょうか。例えば、保養の制度は、チェルノブイリ原発事故の場合は国策で実施されていますが、日本ではどうでしょうか。
 モニタリングポストというものは、目に見えない放射能を数値化して見える化し、被曝防護の視点からも自身が被曝量を知る権利というものに資するものですが、それを撤去するという動きは、人権擁護の観点からも逆行をしていると指摘できます。
 一方で、避難という選択をした人たちも、また国内避難民として、国家の人権に基づく保護の対象であることに変わりありません。原子力災害が一たび起きたときに、現実に存在する国内避難民が存在するのになかったものとして扱われるということは、翻って言うならば、次また原子力発電所を持っているこの国で原子力災害が起きたときに、何の被曝防護の策も取られることなく保護も救済もなされないということとそれは同じであり、それはひいては国民の権利が将来にわたって侵害されることになると私は危惧しています。
 最後に、特に、そうですね、人は、ひとしく自らの命を守り、健康を享受する権利があるはずです。そして、特に被曝に対して脆弱な子供たちにとっては、その子供たちの未来と健康を最優先に考えてほしいと私は思います。子供たちはこの国の未来です。国会議員の先生方、人の命や健康よりも大切にされなければならないものはほかにあるのでしょうか。私は、放射線被曝から免れ、命を守る行為が原則であると考えます。
 原発避難を続けながら、今回の大阪の地震そして災害で、地震、洪水のために更に避難をするという過酷な状況に置かれている原発国内避難民の方もおられます。この災害大国日本で、災害はいつ何度でも、誰の身の上にも起こり得ることです。
 国内避難民に関する指導原則に対応する立法は、原発事故被害者だけを対象にするものだけではなく、あらゆる自然災害の避難者を対象にするものです。国家の国民に対する人権に基づく保護措置としての国内避難民に関する指導原則に対応する国内立法化は、私は必須だと今回の災害を通してもまた思いました。自然災害時における人々の保護に関するIASCガイドラインや被災地におけるスフィア基準が整備、充足化されることも希望いたします。
 今後の災害時における人権が守られますよう、これからも被災、避難当事者としての経験に基づく気付きや教訓を提言し、参画の機会に是非主権者としてもその役割を果たさせていただきたいと私は希望しています。
 先生方には、本当に放射線被曝から免れ健康を享受する権利、それを指して避難の権利と私は呼んでおります。どうかそれを具体化する立法、きちんと手当てする立法をお願いしたいと思い、私からは発言を以上とさせていただきます。
 発言の機会、ありがとうございました。
○委員長(徳永エリ君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
○藤田幸久君 国民民主党の藤田幸久でございます。
 私は、福島の隣の日立の出身でございまして、親戚が福島におりますので、今日、四名の皆さんのお話、本当に心に痛んで聞かせていただきました。議員になる前は元々人道援助の仕事をしておりましたので、そういう観点からも質問させていただきたいと思います。
 まず、森松参考人にお伺いしたいと思いますが、昨年の十一月のUPR勧告というのが四つ、資料としていただいております、ドイツ、オーストリア、メキシコ、ポルトガル。二つお聞きしたいと思いますが、メキシコに関しては、このメキシコ政府の勧告の意図を日本政府はフォローアップをすると言いながら恣意的に解釈していると、それから、ポルトガル政府の勧告に関しては、国内避難民に関する指導原則というのを周知させていないということが書かれておりますが、その具体的な、なぜそういう違った対応をしているのかについてお答えをいただければ有り難いと思います。
○参考人(森松明希子君) 御質問ありがとうございます。
 私も被災をしていまして、国連の勧告がこの七年間の間に、実はこの前にも、今回、二〇一七年のUPRという定期的、普遍的人権状況に関する審査なんですけれども、その前にもあって、これは第三回目となっております。
 それで、前のときには、実は日本政府の対応は、国連グローバー勧告というお名前で、国会議員の先生方も御承知おきかとは思われますが、国民の健康に関する権利について特別報告者の方々が報告をされていますが、それに関して言いましたらば、日本政府はその受入れを拒否するという対応をしておりました。
 ですので、今回もこの勧告が二〇一七年の十一月に四つ出たときに、私たちもどういう反応をしてくださるのかと思いましたらば、政府が受け入れてそれをフォローアップするという形の御返事をいただきまして、実際に国内、先にポルトガルの勧告でいいますと、先ほど来私がここで発言させていただきますのも、私たち避難民は、国境を越えずに国内で避難している者は国内避難民に該当すると申し上げましたが、それがまさに今回勧告でポルトガルが指摘してくださった国内避難民に関する指導原則、日本では、実はこの和訳がなくて、外務省の方に聞いても英語の訳しかなかったんですね。まさに、この七年間、国内避難民の状態で人々が避難をしている。そして災害は次々に起こりますから、今回の西日本の大水害でも、国内において居住地が大規模災害でありますと、県を越えて国内で避難をしているという人が存在するんですが、実は、そういう国際社会から見れば指導原則というものがあるのに、それに対応した立法というものがなかった、それが、特にそういうことがございまして、今回、外務省は早速日本語訳をしてくださるということになっております。
 もう一つ、メキシコの勧告についてですけれども、メキシコの勧告の日本語訳を言いますと、原発事故被害の何世紀もの核被害に対して、医療サービスへのアクセスを保障すると。ですが、今動きとして、例えば福島県でやっている県民健康調査が、国家がやっているのではなくて、例えば福島県がやっている、でも先ほど申し上げたとおり、原子力災害、放射能災害は福島県の県境では止まらないわけですから、これはきちんと精査する意味においても、議員の御出身のひたちなか市とか茨城からも放射線被曝を避けて避難をしている方がいらっしゃるわけで、そういう意味からも、国がきちんと責任を持って健康に関する権利に対しての制度をつくってほしいという意味でございます。
○藤田幸久君 ありがとうございます。
 これは、いろいろ外交防衛委員会等でもフォローさせていただきたいと思っております。
 次に、大西参考人にお伺いしたいと思いますが、配られた資料に福島復興の現状と課題という資料がございます。その十三ページに、原発からの離別という項目で書いてございます。十三ページの右側の二つ目の段落のところですけれども、読み上げますと、「我が国のような自然災害多発地域では、原子力発電が長期的には、とても維持することのできない発電方式であることはすでに明らかとなっている。」、それから、その段落の一番最後の方の数行でございますけれども、「全原発の廃止という決断を、より多数の国民合意の下で可能とするために、再生可能エネルギーを中心とした原発に依らないエネルギー供給体制の安定性を一層高めていくことが急務となっている。」。
 先生のような方がここまで言い切っていただいたということで、これをロードマップあるいは再稼働の決定の方法等に、先ほど廃炉のこともいろいろな側面を言及していただいた中で、ここまでおっしゃっている中で、こういった、今申し上げましたロードマップあるいは再稼働の決定についてどういうふうにこういったお考えを反映させていったらよろしいのか、お答えいただければ幸いでございます。
○参考人(大西隆君) 今取り上げていただきました今日お配りしている資料については、個人の、個人といいますか、大学の学長、研究者としてまとめたものでございます。それで、今日多くの時間を費やして陳述の中で使わせていただいた提言あるいはその議論のまとめについては、検討会の座長という立場ですので、少し違う立場で書いたり、しゃべっているというふうにまず御理解をいただきたいと思います。
 私の個人として、研究者としての持論はこの論考に、今お読みいただいたことに書いたとおりでありまして、繰り返しませんけれども、そういうふうに思っているということであります。
 福島については、御承知のように、第一原発は廃炉が決まっておりますし、第二原発も、これは十三回の検討会の後でございましたけれども、東京電力が廃炉に向けて検討を開始するというふうに県知事等に申し入れたという報道がされています。したがいまして、福島県内においては原発の廃炉というのがかなり大きなテーマになってきているということは疑いがないところであります。したがって、今後福島の復興を考えていくときには、一つには、廃炉に着目した様々な取組、あるいは関連する技術開発というのが重要になると。
 あわせて、福島では相当な発電をしておりましたので、送電線網等の電力に関するネットワークが存在するわけですから、それをうまく活用していく、再生可能エネルギー等によってネットワークをうまく活用していくというのも、与えられた条件を生かすという意味では非常に重要ではないかというふうに考えております。
 そういう方向については、明示的にどこまで書かれているかは別にして、イノベーション・コースト構想とかそういうことの中にも含まれておりますので、私の考えとそれから十二市町村の将来像の提言等に盛り込まれている考えとは通底しているところがあるというふうに考えています。
 以上でございます。
○藤田幸久君 佐藤参考人にお伺いしたいと思います。
 大変貴重なことに従事されて取り組んでおられますが、これ国としてどういう支援をしたらよろしいのか、まずお聞きしたいと思います。
○参考人(佐藤大介君) 現場でやはり一番問題になっているのは、今後その助けたものを整理していくときの人ややっぱり資金が足りないということで、特にやっぱり人を恒常的に対応できるようなまず体制が欲しいということが一つあります。
 それから、何ですかね、あとは保管場所といいますか、やっぱり本当、中長期にわたるところの部分ですね、保管場所も人の手当ても全般的にちょっとやはり十分でないというふうに認識しておりますので、そうしたところに支援をいただけると、お願いしたいというふうに思っております。
○藤田幸久君 今日お話伺って感じましたのは、ここ一、二年話題になっています公文書、行政文書、これが改ざんされたり手を加えられたり隠蔽されたり。この古文書についてこれだけ丁寧にやっていらっしゃるということは、今回、ここ一、二年見ておりまして、公文書偽造というのは、これ民主主義の否定そのものであると同時に、今日、先生のお話伺いまして、これ歴史の否定でもあるなということを実感したんですが、こういう公文書というものが、今現在ですけれども、改ざんされたり、こういうふうに扱われているということについては大変じくじたる思いかなと思うんですけれども、先生の方からコメントいただければ有り難いと思います。
○参考人(佐藤大介君) 今御指摘のとおり、やはり民主主義の基礎でありますし、文書は税金で作っておりますので、そこの原則を確認したいんですが、私が遺文の研究をしているのはいわゆる江戸時代の公文書に当たるものです。それを見ますと、やはり江戸時代の役人や殿様も多様な世論に向き合って非常に悩みながら政策を決めている。それは同じ時代には出せないけれども、今だからとか百年たったら検証するとか、そういうことがあり得るといいますか、それを行うためにもやはり記録というのがきちっと残っているということはとても大事なことだと思いますし、それが改ざんされるという事実が一回起こってしまうと、じゃ今残っている資料も何かそうなっているのかという、それは非常に研究者としては非常に不安であります。
 やっぱり、いろんな意見で全員が納得しないけれども、そのときに下した判断がどうだったのかということを検証するという意味においても記録はきちっと残していくということが重要ですし、その意味においては、何ですかね、歴史学者を、やっぱり後世の歴史学者も含めて御信頼いただいて、記録を残していく、そういうものがきちっと本当に大前提として共有されていけばいいのではないかというふうに感じているところです。
○藤田幸久君 もう一度、大西先生にお伺いしたいと思います。
 先ほどのテーマでございますけれども、こういう全国民の合意の下でこうした再生可能エネルギーといったものを求めていくという場合に、例えば今再稼働に関しても規制委員会の権限と政府の権限がはっきりしていない。それから、これは、先生がおっしゃることは、国の経産省からいろんな省庁からやっていくわけですが、今の仕組みだとどうしても漏れが生じてしまう。より体系的、機能的な仕組みが必要ではないかと。
 例えば、先生の前の学術会議の委員長だったんでしょうか、黒川先生が国会事故調をまとめられましたけれども、そういった提案、つまり、有機的に、多角的に、機能的にやっていかなければこういった政策立案が難しいんではないかと思うんですけれども、それに対してどういうふうにしていったらいいか、御提案があればお伺いしたいと思います。
○参考人(大西隆君) 今おっしゃったような仕組みについての提案というと、今日私が整理してきたことを超えるというふうに思いますが、ここで書いた、つまり、より多数の国民合意の下で可能とするというふうに書いた真意は、やはり全ての条件、安定性とか安全性とか低価格性とか、全ての条件を満たすエネルギー供給手段というのはないというふうに私どもは考えております。一つ一つ、いい点もあれば悪い点もあるということであります。しかし、その中で安全性ということで問題が生じている原子力については、これは安全性についての問題というのはかなり大きな問題だというふうに考えておりますので、そうなると他のエネルギー供給手段で、どうやってこれをもし廃止するとすれば補っていくのかということが、みんなが納得する格好で理解されればそういう方向に進んでいくだろうというふうに考えているわけです。
 したがって、特に再生可能エネルギーについては安定供給の問題が十分ではないという認識が一般的だろうと思いますので、これが広く国民の中で行き渡るような、もちろん技術の開発や実践、それを踏まえた共通認識の形成ということが必要なんだろうというふうに思っています。
 つまり、エネルギーというのは極めて重要なインフラであるだけに、やはり多数の国民が納得するという格好でないと不安が生ずるということだと思いますので、その意味で特にここでより多数の国民合意の下で可能とするための条件ということを書いたわけでございます。
○委員長(徳永エリ君) もう時間です。もう時間が来ております。
○藤田幸久君 熊本参考人に質問時間がなくなりまして申し訳ありませんでしたが、三名の方、ありがとうございました。